第2話 後輩は 不意を ついてきた !

 高校の駐輪場にまばらに置かれた自転車の中、優也は自身の自転車のスタンドを立てたままサドルに座ってスマホを弄っている。

 優也はペダルを逆回転させて空転させて、じゃらじゃらとチェーンだけが空回る音を立てて。スマホ画面に映るのは近場のネットカフェの相場。

「せんぱい、帰らないんですか?」

 背後から声を掛けられて、振り返るったその先には後輩女子の堀千尋ほりちひろがいた。

「ちょっと調べものしてんの」

 つい、と顔をスマホの画面に戻せば、「見ていいですか?」と問いかけると同時に画面を覗き込んでくる後輩。

 答え待ってないじゃんと優也は片眉を上げるが実際に声を上げるほど狭量の先輩ではない。何も言わずにスルーした。

「なんでネカフェ調べてるんですか? 家にネット環境ないんですか?」

「一体人の家を何だと思ってんの?」

 黒船来航以前の人間じゃあるまいし。

「ちょっと家で調べものとか二の足を踏む精神状態なの」

「……せんぱい、そのメンタルちょっと尋常じゃないですよ?」

 言われないでも分かっていた。だが優也はやはりそれを分かっていても自室での今回の調べものをやる気は起きなかった。

「ちっひーはさぁ」

 ちっひー。小笠原優也が呼ぶ堀千尋のあだ名である。

「はい」

「VTuberって詳しい?」

「ぶいちゅうばぁ」

 鸚鵡返しで返される。

「あるいは盗撮盗聴について」

「ちょっと待ってください」

 投げかけられた二つが余りに食い合わせが悪すぎた。思わず千尋も待ったを掛ける。

 高低差で耳キーンなるか寒暖差で風邪引くかのレベルであった。

「スイカに天ぷらくらい食べ合わせの悪い文字列を投げかけないでください。それこそせんぱいは私のことを一体なんだと思ってるんですか」

「スイカかぁ。いいね。そろそろ時期だね」

 しゃわしゃわしゃわしゃわ。

 じーじーじーじー。

 みんみんみんみん。

 友人たちと共にカラオケに行った昨日に続いて今日も暑い。もはや単なる日常に溶け込んでいるが、意識を向ければありとあらゆる夏の虫が声を上げている。

 汗でぺたりと身体に張り付いたシャツの気持ち悪さを感じながら、優也が脳裏にキンキンに冷やされたスイカを思い浮かべる。

「そのお供にサイダー」

 ペットボトルの蓋を開け、プシュ! と炭酸の弾ける音が聞こえてくるようだ。

 いっそ帰り道コンビニにでも寄って買って帰ろうか。ああそうなるとアイスも食べたい。だけれど金がない。

「いいですね」

 千尋も頷いた。

「そうではなく」

 そして突っ込んだ。

「せんぱいってVTuberに興味あったんですか? それと何か犯罪をしようとしているんですか? あるいは巻き込まれているんですか?」

 改めて言われると本当に訳わかんねえこと言ってんな自分。優也は思った。

「興味……っていうか」

「恐怖」

「きょうふ」

「犯罪……っていうか」

「懸念」

「けねん」

 鸚鵡にならざるを得ない千尋を誰が責められようか。一つとして要領を得ない先輩の言葉を何とか咀嚼しようとする彼女の頭上には疑問符が浮かびっぱなしだ。

「まあ、分かんないよね。いいよ、やっぱネカフェ行って調べるから」

 そう言って財布を取り出して中身の確認を始める先輩を目の前にすると、何か負けた気がする堀千尋。

「……いいでしょう。明日またここに来てください。せんぱいに本当のVTuberってものを教えて差し上げますよ」

 彼女の掛ける眼鏡のシルバーフレームがきらりと光った。

「いや、そりゃ来るけど」

 土日だというのに部活はあるし。

「ちっひー詳しいの?」

 ぶいちゅうばぁ。

「帰って調べます」

「盗撮とか盗聴については?」

「そっちは闇が深そうなんでパスします」

 はんざいしゃ。




 部活動というものを優也は正直好きではない。

 平日でもガリガリと体力を削られるし、家に帰って晩を取った後予備校に向かい、家に帰って風呂に入っていたら数日に一度寝落ちしてしまう。

 なにより嫌いなのは休日に行われる部活である。昨日今日どにちのように休みだというのに学校がある日と変わらない時間に起きて登校して、正午を少し過ぎたところで終わる。活動時間は四時間そこそこだが兎角休みに起きるのが億劫だ。だらだら惰眠を貪りたい。

 実のところ自分以外の高校生のほとんどが似たような感情を部活に抱いているのではないかと統計を取っていない確信さえ持っている。

 にも関わらず帰宅部が許される学校に入っておいて未だ部活テニスを続けているのは、一種の惰性に近い。辞めない理由は妥協だ。辞めるに至る動機がないとも言える。大してその競技の名門でもない学校に通う高校生として、とても最大数的だと自認している。

 そうして昨日に続いて今日も優也はめんどくさがりつつも部活に出て、嫌というほど蒸す体育館の中筋トレストレッチをして、クソ暑い中グラウンドを走りまわって、素振りをする一年を尻目にサーブボレーの練習に励む。

 十三時に練習を終え、同じような内容を消化していた女子テニス部所属の千尋を自転車の前にて待つ。

「お待たせしました」

 ラケットバッグを背負いながら小走りに駆けてくる銀縁眼鏡の後輩を認めて、優也は口にしていたスポーツドリンクをしまった。

「調べてくれた?」

「ええ、色々と」

「なんか悪いね」

「いまさらですよ」

 その通りだと優也は笑う。昨日帰ってから後輩に疑問を丸投げしたのを振り返るとどうにも尻の座りの悪いこと悪いこと。しょうがないので盗撮盗聴もうかたほうについてはベッドに寝転びながらスマホで調べてみたが、その最中やたらとコンセントプラグの中身を調べたくなったり、姉の部屋がある方の壁が気になってきてまるで自室に一切の安息がないように覚えてきてしまったので打ち止めた。

 VTuberと、盗撮盗聴。

 調べたかったのに自分の部屋で調べられなかったのは、そういうことである。

 姉っぽいVTuberアレ

 未だ本当に姉なのか謎に包まれているアレではあるが、もしもアレが真実姉であるのならひょっとして、今こうして寝転がっている姿も姉は観察しているかもしれない。

 形のない妄想ではあるが、あの弟への愛を語る姿はムショ暮らし前の姉の姿を想起させるに十分な衝撃であった。

 むしろこれまで姉が大人しかった分の反動で優也は恐怖をぶり返している。いや、むしろ安息の一時が奪われるかもしれない、過ごしてきた分これまでよりも。

「調べたいって言ったのは私ですし、せんぱいは気にしないでもらって」

「……あ、ああ。そう? なら良いんだけど」

 真夏日だというのに一瞬寒気を感じたが、千尋の声で優也は我に返る。

「それで、どっか落ち着いたところで話したいんだけど、どうする?」

「正直なところ、やっぱり実物見ながらの方が分かりやすいと思います」

 実物。VTuberそのもの。

 そうなるとやはり必要となるものはネット回線である。

「……ネカフェ?」

「お金勿体無いじゃないですか。それにせんぱいの家ではやりにくいんでしょう?」

 昨日の感じだと。

 その通りだと優也は頷く。

「なら私の家に来てください。それが一番手っ取り早いです」

「……」

 しばしの沈黙。

 じーわ、じーわ、じーわ、じぃー。

 灼熱の一時を生き急ぐかのように叫び続ける蝉の声だけが青空に響く。

「反応に困りますよせんぱい。何も恋人同士じゃないんですからそんな意識しないでください」

 やはり、千尋の銀縁がきらりと光った。

 そう言われて「いや、でも」と断るのも優也はなんだか意識しているようで嫌だった。いくら後輩とはいえ女子の家を訪れるというのは否が応にも意識せざるを得ないのだが。

「まあそうだね。部活の先輩後輩だしね」

 おかしくない、おかしくない。

 おかしいとは思いつつ、しかしそれでも意識していると思われたくないので、優也は首肯した。


 昼食べてから行くよ、という優也の声は「お昼くらい出しますよ」という千尋の一言で却下された。

 学校の先輩後輩二人が自転車に跨って、後輩の家に向かう。

 道中は何故かお互いにしばし無言。

 当然優也は千尋の家を知らないので、彼女に先導されるがままについて行った。

 彼女が向かった先はマンションの一室である。

「ここが私の家です」

 マンションの駐輪場に自転車を置いて、オートロックのマンション玄関を開いて乗ったのはエレベーター。千尋が押したのは七のボタン。

 七階で降り、十数歩の後、扉の前で足を止めた千尋がそう言った。

 ごそごそと制服のポケットをまさぐって取り出したるは家の鍵。

 それを見て優也は疑問に思う。

 家の中にいる家族に開けて貰えばいいじゃんと。

 釈然としない内に千尋は鍵を開けて扉を開く。

「どうぞ」

 と促されるので逆らわずに彼女の家の中に入る。

「……お邪魔しまーす」

 彼女の家の中はしんと静まりかえっていて、人がいる気配がしない。

「……ご両親は?」

 玄関にて靴を脱ぐ彼女を見ながら所在なく立つ優也に、千尋は一切の慈悲なく答えた。

「父は単身赴任で、母は大体夕方までパート、あるいはママ友でお稽古事行ってます」

「……聞いてないね」

「言ってないですね」

「……お昼って?」

「当然私が作るしかないですよ、せんぱい」

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