受験戦線異状なし

足摺飯店

受験戦線異状なし

達雄は丸ノ内線を降りて御茶ノ水駅のホームに出た。ここから徒歩十分のところに名声会はあるらしい。改札口に通じる階段を上りながら達雄は言った。

「予備校ってのはどんなもんだろうな」

「行けばわかるよ。きっと恐ろしい講師がうようよいる、魑魅魍魎のような世界に違いない」

 隣の浅島が答えた。浅島は東京に来てから知り合った達雄の友人で、二人ともW大志望の浪人生である。二人は地方から東京に出てきていて、どちらも成績優秀で周囲からは将来を嘱望されている。二人の出身高校の生徒は高卒の割合の方が多いくらいだったから、私立のトップであるW大に合格したとなれば英雄扱いだ。故郷に錦を飾ることができる。W大に合格することは達雄と浅島の悲願だった。

「それじゃあ百鬼夜行と行きますか!」

 達雄はおどけて言った。彼らが向かっているのは名声会という予備校である。それなりに有名な予備校で、特に落ちこぼれの生徒たちを一流大学に入れることには定評がある。二人は地元の高校でこそ秀才だったが、それでもW大合格には程遠い。達雄が初めて上京した時、東京駅の前で名声会のバイトがビラ配りをしていて、そのビラには「現在どの学力にある生徒でも必ず希望の大学に合格させます」と力強い文句が書かれていた。その言葉に惹かれ、入塾することを決意したのだった。

 達雄がW大を目指すのは何も名門大学だからというだけではない。達雄は文学少年で、文学好きにとってW大は特別な意味を持つ学校だった。ノーベル文学賞筆頭と噂される村上春樹や芥川賞最年少受賞の綿谷りさはW大学出身である。だから達雄のW大への憧れは人一倍強い。筋金入りの野球少年であり六大学野球リーグの舞台に立ちたいと願う浅島もまた、その思いは同じだった。

「絶対W大行こうぜ、浅島」

「おう」

 二人はS大学の御茶ノ水キャンパスを通り過ぎ、名声会がある通りにやって来た。その通りは坂の途中に位置していて、しかもかなりの急勾配である。達雄はこの激しい上り坂から自分がこれから立ち向かわなくてはならない受験勉強の険しさを連想した。

 歩道と車道の境に桜が植えられている。来年、晴々とした気持ちで桜が見たいと達雄は思う。

「よし、やってやるぞ」

「ところで名声会はどこにあるんだ?」

 二人は辺りを見回して、なぜかインドカレー屋の前に名声会の看板が出ているのを発見した。

「何かの間違いか? それにしてもボロい看板だな」

 浅島が名声会の看板に手を触れる。二人はしばらくの間戸惑っていたが、ついに名声会の入り口を探し当てた。インドカレー屋の傍らに地下に続いている階段があった。

 なんと名声会はインドカレー屋の下にあったのだ。

 二人は地下に降りた。そこは一応学習塾の体裁をなしてはいたが、壁の塗装は所々剥げていて天井の換気扇からはカレー屋から漏れてきているのだろう、スパイスの匂いがぷんぷんする。いかにもみすぼらしい場所であった。

「おい、こんなところに来て受かるんだろうか」

 廊下は無人だったが、教室や講師室に声が漏れることを警戒して浅島はヒソヒソ声で言った。

「金はないが、指導は熱心という場合もあるだろ。もうちょっと信じてみよう」

 達雄はあらかじめ指定されていた103号室(名声会があるのは地下一階だけなので上二桁にまるっきり意味はないのだが)の扉を開けた。

 定員二十名くらいの狭い教室で、既に着席していた生徒たちは大人しそうに単語帳やら文法書やらを眺めていた。達雄たちは少し遅刻していたので彼らが最後の生徒らしかった。達雄たちが最後列の席につくと教室に五十過ぎくらいの男が入ってきた。頭部にはだいぶ白髪が目立っていて、初老に差し掛かったといってもよい見た目である。温厚そうな先生だな、きっと優しく教えてくれるに違いない、と達雄は思った。もっと厳つい講師が来るのではないかと身構えていたから些か拍子抜けだった。

「初めまして生徒の皆さん。自分が塾長兼講師の熊田です。現代文を教えています。これからよろしく」

 熊田は早速プリントを生徒たちに配布した。プリントは志望校の調査と軽い自己紹介をしてくださいというものだった。

——できるだけ講師と仲良くなっておいた方が今後の浪人生活で役立つだろう。それに熊田は現代文担当だというから、小説を愛する者同士、趣味が合うかもしれない。達雄はそのように考え、自己紹介欄を充実させ、志望校調査の箇所には自分がどれだけW大に行きたいかをみっちりねっちりと描写した。達雄がプリントの空欄を全て埋めて顔を上げると、もうほとんどの生徒は書き終えているようだった。

「じゃあ、見せてもらおうか」

 熊田は最前列にいたメガネの男からプリントを取り上げて一瞥した。

「ふむ。君はK大志望なのかね」

「はい」

 K大というのはW大と並び立つレベルの有名私大である。

「ふざけるな!」

 熊田は憤怒の表情でメガネの男の顔面を鷲掴みにし、彼が座っていた机に叩きつける。メガネの男の鼻の穴から血が噴出し、机は真っ赤に染まった。熊田はそれでも手を止めることはせず、メガネ男の顔を打ち付ける。ゴスッゴスッ。鈍い音が教室中に響く。男がかけていたメガネは粉砕してガラスが床に散らばった。

予期しない流血沙汰に達雄は唖然とした。身体が金縛りの状態になってしまい、絶え間なく暴力を振るい続ける熊田をじっと観続けるほかなかった。隣に座っている浅島や他の生徒たちも同様だった。

「なんという怠慢! なんという低い志! 東大以外の大学は全てゴミだ!」

 右手の握力だけでメガネの男をぐわしと持ち上げ、熊田は床に放り投げた。メガネの男は顔面をしたたかにぶつけ、ぴくぴくと痙攣したのち気絶した。どうやら脳震盪を起こしたらしい。

 熊田は興味なさげに倒れた男をちらりとだけ見て、口上を続ける。

「どうせお前たちはくだらない宣伝文句に釣られてノコノコとやって来た者がほとんどだろう。お前らみたいなクズはいつだって他力本願で、何者にもなれはしない。将来何者になりたいかという夢すら持っていない。あったとしても自慰行為ばかりでまともに努力しちゃいない。東大に受かるような天才は違う。元来知的探究心が旺盛で、受験勉強なんて苦にもならない奴がほとんどだ。お前らが喉から手が出るほど欲しがってる大学合格なんて、奴らにとってはただの過程にすぎないんだよ」

 達雄たちが触れて欲しくない事実が残酷なまでに突きつけられた。達雄は今熊田が言ったことはまさに自分のことだ、と感じ自己嫌悪でひどく胸が苦しくなった。

「しかし、安心しろ。俺たち名声会講師の助力と、お前たちの必死の努力があれば、たとえ凡人でも東大に受かることはできる。一時的にせよ社会的に認められるアイデンティティを得られ、天才たちと肩を並べられるんだ。『何者でもない』という呪縛に喘ぐこともなくなる」

 熊田は教室の生徒たち一人一人と目線を合わせた。すごいプレッシャーだ。オカルトは信じないが、この眼力はオーラのようなものを纏っている、と達雄は思った。

「どうだ? 魅力的じゃないか?」

 熊田は再び舐め回すように生徒全員を見た。脇の下に、背中に、じっとりと汗をかいているに気付く。多分他のみんなも同じだろう。部屋中に無言の沈黙が広がり、辛い! 一刻も早く終わってくれ! とプレッシャーに耐えかねた達雄は祈った。

「3分間待ってやる。その後プリントを回収する。やめたい奴は勝手にやめろ」

 熊田はそう言い残すと教室を出た。金縛りが解ける。達雄は慌ててプリントの志望校調査欄を東京大学文科三類と書き直した。

 こうして達雄は東大を目指すことになり、猛勉強の日々が幕を開けたのだった。


 初めて名声会に行ってから数週間が経とうとしていた。達雄と浅島は死に物狂いの勉強を始めていた。8時間の睡眠時間を確保し、それ以外の時間は全て勉強に当てていた。食事はウイダーインゼリーなどの簡易食のみで、トイレをする時間ももったいなかったのでペットボトルに処理していた。思考を一つのことに集中させることで生じる自己陶酔感が、受験勉強の辛さを少し紛らわせる。その事が唯一の救いだった。熊田の物言いは高圧的で、もちろん反感はある。だが、ここですごすごと撤退するのは負け犬そのものだ。俺たちはクズなんかじゃない。東大に合格して熊田を見返してやりたい。その思いが二人の闘志に火をつけたのだった。

「そろそろ気分転換に名声会に行ってみないか? 自習室が開いてるそうじゃないか。学生寮にこもり続けて流石に滅入りそうだ」

「お前落ちるぞバカ島……。いや、確かに根性にも限界がある。行ってみようか」

 まず二人は銭湯で1週間ぶりに入浴をし、身体にこびりついた垢を落とした。久しぶりの風呂でテンションが異様に高揚してはしゃぐ二人を、周りの入浴者が異常者を見るような目つきで見ていた。その後二人は名声会に赴いた。本格的に名声会の授業が始まるのは初回から一ヶ月後だったが、生徒たちは自習をするために集まっているようだった。驚くべきことに数週間前教室に来ていた生徒たちのほとんどが残っていた。あのメガネを割られた男までもがそうだった。また熊田に暴力を振られることを警戒したのか、メガネをコンタクトに変えていた。二人は先日と同じ最後尾の席に腰を下ろし、参考書を開いて黙々と勉強を始めた。達雄は教室の上にあるものが吊り下げられているのを見た。夥しい数の監視カメラであった。こんなに数が多いと映らない生徒はいないだろう。

——これはパノプティコンだ。達雄は世界史の知識を反芻(はんすう)する。日本語訳で全展望監視システム。収容者がお互いを見る事ができない点では違うが、看守が収容者全てを監視できるというのは同じだ。肝心なのは、収容者(受験生)には監視されているかどうかの判別がつかない事だ。それはつまり収容者に恒常的に監視されているのと同等の緊張をもたらす。いつ熊田が現れて暴力を行使するかわからない。そのことを考えると、私語などできるわけがない。そんなことをする奴はとんでもないバカだ。

「なあなあ、達雄。お前の前に座ってる女の子、すげえ可愛くないか?」

ここにバカがいた。浅島は頭上の監視カメラに全然気付いてないようだった。静かに! のジェスチャーをしようとしたが、達雄はすんでのところで思い止まる。あの冷酷無慈悲な熊田のことだ、勉強以外の行為は全て違反行為にカウントされるのではないか? その恐怖に怯え、達雄は顔を上げることすらせず完膚なきまでに無視を貫いた。

「達雄、聞いてんのか? それにしても熊田の野郎、マジでムカつくよなー。しかも名前の通りの巨体だから喧嘩じゃ敵いっこないし。バトル漫画みたいな能力があればぶっ倒せるのにな。出でよ、おれのスタンド! アルター能力! ギガロマニアックス!」

やめておけよ浅島! お願いだから黙ってくれ! 達雄の必死の祈りも虚しく、アホらしすぎて溜息が出るようなことを浅島は呟き続ける。

「ペルソナ! 念能力! スーパーサイヤ人! フンフンディフェンス! 卍解‼︎」

ガラガラと教室の扉が開き、熊田が姿を現した。

「おい、誰だ。今騒いでいたのは」

今までカリカリと鉛筆の音がしていた教室が急に静かになった。その静寂(しじま)を破ったのは浅島である。

「おれ、うるさかったですかね? すいませんした!」

浅島の低能さに達雄は絶望した。熊田は「騒いでいたのは誰だ」と聞いた。つまり熊田は教室に入って来た時点では声の主の正体に気付いていなかったのだ。監視カメラの映像を見ていなかったに違いない。よく考えてみればこんなにボロボロの校舎なのだ、こんな数の監視カメラを用意する予算があるとは到底思えない。ほとんどはダミーだろう。下手をすれば全てがダミーという可能性だってあり得る。しかし浅島は既に誤魔化すチャンスを失ってしまった。

 熊田は無表情で押し黙っていたが、やがて口を開いた。その内容は達雄を驚愕させるものだった。

「教室では口を閉じろ。あといやらしい目付きで女子を見るな。無用な邪念は学習の妨げになる」

 熊田は浅島の発言を全て聞いていたのだった。でも、一体どうやって?

 その刹那、達雄の思考はそこで一旦途切れる。羞恥に顔を赤くしていた浅島の右目。そこに熊田の右手の親指と人差し指が無造作に突っ込まれた。

「ぎゃああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」

 浅島の絶叫。熊田の指は既に引き抜かれ、浅島は手を右目に当てる。だが、そこはただの空洞だった。もう何も存在していなかった。

「おれの目は? 目どこ?」

浅島はきょろきょろと辺りを見回す。それはあまりにも非現実的で痛ましい光景だったので、思わず達雄は視線をそらした。

「だから黙れと言っただろう」

 腹部に強烈な一発が与えられた。浅島は(残った)目を剥いて、口からは泡を吹き出し、そして気絶した。股間は失禁してビチョビチョに濡れていた。アンモニア臭が教室に漂ってひどく臭った。

「教室が汚れちまったな。今日はもう解散だ。明日までに綺麗にしておくから、今日はそれぞれ自宅で勉強して欲しい。みんなよく頑張って勉強しているな。もうすぐ授業が始まるから決して気持ちを緩めずに過ごしてくれ」

 熊田の温かい言葉に達雄はびっくりした。しかし、休日も返上して塾に来ているのだ。熊田も暴力癖を除けば、情熱を持った良い教師なのかもしれない。たった今凄まじい暴行を目撃した身としては、とてもそうは思えなかったが。「お前は講師室で個別指導だ」と熊田は気を失った浅島の身体をずるずると引きずっていった。浅島への同情はあるものの、自分が無傷で切り抜けたことにほっとしていた。しかし、これからはそうもいかないかもしれない。達雄に塾を辞めるという選択肢はなかった。なぜならもうお金がなかったからだ。予備校に通うというのはなかなか費用がかかる。名声会は月々の費用は破格の安さだったが、入塾費はやはりそれなりにした。それに達雄は上京の費用も親に負担してもらっていた。これ以上親に迷惑はかけられないし、そもそもどの面下げて故郷に帰るのだ。

——やはり、みんな同じような事情があるのだろうか。帰り支度をしている教室の生徒たちの様子を伺う。広げた参考書の上に飛来してきた、ぐちゃぐちゃの浅島の眼球をどう処理したらいいかとコンタクトの男が困惑していたが、達雄が注視したのはそこではない。

 浅島が先ほど言及していた前の席の女子。その子の美貌に達雄は目を奪われていた。——小野小町がそこにはいた。いやクレオパトラか? それとも楊貴妃? この子はおれのファム・ファタルだ!(『運命の女』の意)と達雄は思った。

(ここでの容姿の詳細な描写は控え、読者の想像力にお任せしたい。なぜなら達雄は数週間の間、参考書だけに没頭する過酷な環境下におかれていたため、既に精神に異常をきたし始めていたからである。時に精神異常者の価値観は逆転する。達雄や浅島のいう『美女』が世間的にみれば醜女だったとしても、何ら不思議ではない。この文書は達雄からの伝聞によって執筆されているため、達雄の主観によって事実が歪曲されている可能性は否めない。できるだけ事実に沿ったものを書きたいという筆者の意図をご留意頂きたい。)

 達雄にじっと見つめられていることに気付き、件の女子生徒は話しかけてきた。

「さっきの熊田先生すごかったね。浅島君、大丈夫かな?」

 達雄の心臓は激しく動悸した。なんといっても達雄が洗練された東京の女性と話すのは初めてなのだ。緊張するのも無理はない。だが達雄の切り替えは素早かった。

「うん。うん。そうだね。そうに違いない。やばいよね。ところで勉強してるとなんだか腹が減らないか? もう八時だし、夕食には丁度いい頃合いだよね。君さえ良ければ、一緒に食事なんてどうだろう?」

「いいよ。私は赤沢サクラ。よろしくね!」

 達雄は内心、狂喜乱舞した。浅島のことはもう頭からすっかり消えていた。


 1時間後。達雄は鼻歌混じりで学生寮への道を帰宅していた。

「ふふーん♪ ふふふーん♫」

 達雄とサクラは名声会の上のカレー屋で一緒に食事をした。達雄としてはもっとムードのある洒落たレストランで食事がしたかったが、彼女が「早く帰って勉強しなきゃ」と言うので致し方なかった。

——やった。やった。やったぞ。お近づきになれた、おれのファム・ファタルと!

 達雄はバターカレーとチャイを、サクラはグリーンカレーとマンゴーラッシーを注文した。セットでナンがついてきた。二人は取り留めのない話をした。サクラは少し話をしただけで教養と知性がある女の子だと分かった。見せてくれた鞄の中には、参考書以外に哲学書が数冊入っていた。「哲学科に進みたいの」と彼女は言った。達雄も文学少年だったから『サルでもわかる! はじめてのフッサール』なんて本は持っていたが、解説本ではない原書を読んだことは一度もない。達雄は難しいことは嫌いなのだ。それにしても、勉強だけで大変なのにその合間に難解な本を読むなんて。彼女こそ熊田の言う『知的探究心』に溢(あふ)れたひとだ、と達雄は思った。しかも彼女は昨年重い病気を患っていて受験勉強どころではなかったらしい。残念ながら入試では落ちてしまったけれど、それでも東大模試では安定してA判定を取れていた。ちなみに達雄はずっとE判定だ。あのひどい環境での勉強も苦にならないようで、達雄は憧れと同時に少しの隔たりを感じたりもした。

「おいしかったね!」

「うん」

 達雄とサクラは店を出た。達雄は今夜サクラが自分に付き合ってくれたのはほんの気まぐれで、もう二度と二人で会ってはくれないんじゃないか——そんな疑念が達雄の胸中に渦巻いた。

「達雄君……黙りこんじゃってどうしたの?」

「サクラちゃん。結婚を前提に僕とお付き合いしてくれませんか?」

 ——何をほざいてるんだ、達雄は言ってから激しく後悔した。熊田の激しい暴力を目撃したせいで頭がおかしくなってしまったのか? これが吊り橋効果という奴だろうか。さっき知り合った奴に告白されて、承諾する女の子がいるわけがない。

「ゴメン、今言ったことは聞かなかったことにしてくれな——」

「いいよ。付き合ってあげる」

 達雄は耳を疑った。

「え? マジで? ほんまですか?」

 つい、地元の方言が出てしまう。それほどまでに動揺していた。

「ホントだよ。でも不安感から恋愛に没頭した挙句、勉強に集中できずに落ちてちゃう受験生ってよくいるから。二人とも晴れて東大に合格できたらお付き合いする——これでどうかな?」

「絶対東大合格します」

 この一幕から達雄はさらに睡眠時間を削り、受験勉強に全てを費やす覚悟を持ち始めることになった。

——一方その頃。

「ちくしょう……」

 一人を除いて誰もいなくなった名声会校舎。その講師室で、嗚咽を漏らす少年がいた。

浅島である。あの後何時間にも渡って熊田から暴行を受け続け、浅島の心身はボロボロだった。

「何が教育的指導だよ……! こんなもん、尾木ママが見たらぽっくり逝っちまう」

 痛い。痛い痛い痛い痛い。熊田に抉られた右目がひどく傷んだ。

「あああああああああああッッ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎ 痛えよ、痛えよ! おれをこんな目に合わせた熊田は絶対に許さねえ! 絶対に復讐してやる! 一族郎党皆殺しだ!」

 浅島は立ち上がった。熊田は名前の通り凄まじい巨躯の持ち主だ。今の浅島では太刀打ちできない。熊田を殺す以前に、肉体に傷をつけることすら叶わないだろう。熊田よりも小柄で、しかも右目を失明している浅島が熊田と対等に戦う方法を見つけ出さないといけない。

「スタンド? アルター能力? ハハハッ、そんなもん、現実にありゃあしないよな。おれは自分の手で、自分の足で、自分の力だけで熊田に復讐を遂げてみせる」

 浅島は復讐の甘美さに酔った。そして、それだけが浅島に傷の痛みを忘れさせてくれる唯一のものだった。浅島は狂気をその瞳に滾(たぎ)らせ、にやりと笑った。


 桜が散り、春は瞬く間に過ぎ去り、受験生にとって天王山と呼ばれる夏が来た。達雄は一刻も早く模試E判定を脱却し、少しでも東大合格に近づくための努力を日々積み重ねていた。

しかし、気になるのは浅島の動向だった。浅島は右目を失明してからというもの、自分の部屋にこもりきりになってしまい、あまり顔を合わせることはなくなっていた。達雄は心配になり勉強を中断することにした。名声会に行く以外の目的で外出するのは久しぶりだった。達雄が住む学生寮は浅島に勧められた物件で、浅島もそこに住んでいた。達雄は浅島の部屋の前に立った。扉をノックしてみる。

「おーい、浅島。生きてるかー?」

 数分ほど待ったのち、ガチャリという音がして扉から浅島の顔が覗いた。無精髭が茂っていてかなり不清潔な印象を達雄は抱いた。右目には眼帯をしていた。

「よお! 久しぶりだな達雄! さあさあ、突っ立ってないで入ってくれよ!」

 異様にテンションが高く、目がぎらついている。なんだか恐ろしかったが、浅島は一生響く怪我を負ったばかりの被害者なのだ。無下にするのは悪いと思い、達雄は浅島の部屋に足を踏み入れた。

「微分・積分・いい気分! 微分・積分・いい気分!」

 浅島はしょうもないギャグを言って自分で爆笑している。達雄は背筋が冷たくなるのを感じた。受験のストレスでおかしくなってしまう人間がいると聞いたことはあるが、浅島もその部類だろうか。以前の浅島はしょうもないギャグを言って爆笑するような人間ではなかったはずだ。

「お前、一体どうしちゃったんだよ……」

「微分・積分・いい気分! 微分・積分・いい気分!」

 ——ダメだこいつ。完全に狂っている。帰ってしまおうか。達雄が浅島の部屋を見渡すと参考書が至るところに散らばっている。いくつもの参考書に手を出すのは、不合格になる受験生の典型的な特徴だった。参考書に混じって古びた本が床に落ちているのを見つけた。受験期に突入する前の浅島は野球に打ち込むスポーツ少年だったと聞いていて、読書をする習慣はなかったはずだ。達雄は違和感があった。その本は『腹腹時計』というなんだか聞き覚えがあるタイトルだったが、肝心の内容は思い出せなかった。

「達雄。お前、超人会って知ってるか?」

 浅島がまともな言葉を口に出したので、ふざけていただけで正気は保っていたのだなと達雄は安心する。

「ああ。確か、超有名高校出身か全国的に成績優秀な生徒しか入れない東大専門の予備校だったよな。そこに所属している生徒は80%が東大に合格するっていう触れ込みで、実際に昨年は約1000人もの合格者を出している。東大の総定員が3000人弱ということを考えれば、これは物凄い合格実績だ」

 新宿の一角に巨大ビルを構えていて、そこに東京中の天才たちが集まると聞いたことがあった。達雄には縁遠い世界である。達雄のような普通の公立高校を出た人間と、彼らのような幼い時から学習塾を経験し、東大合格者輩出を目的とした進学校に通った人間とはそもそものスタートラインが違う。不公平だとは思うが、生まれは変えられない。入学試験そのものは経歴や経済状況が問われることのない勝負だ。ならば割り切って戦うしかない。達雄はそう考えていたから、浅島の次の発言には耳を疑った。

「そいつらが全員死んだとしたら、おれたちが東大に合格する可能性は飛躍的に向上する——そうは思わないか?」

「浅島……お前、自分が何を言っているのか分かってるのか?」

 嫌な汗が首筋を流れ落ち、沈黙が二人を包む。浅島は破顔して、達雄の肩をポンポンと叩いた。

「冗談だよ。冗談! そのくらい分かれよ達雄! 勉強のしすぎで頭が固くなったんじゃないか?」

 浅島がからかうような口調でそう言ったので、達雄はほっと胸を撫で下ろした。

「今のお前が言うと冗談に思えないんだよ……」

「そうか? そうだ、もうすぐ放送される頃合いだな」

「何が?」

「それは見てのお楽しみ!」

 浅島が机に置かれていたリモコンを手に取り、テレビをつけた。テレビの中では超人会ビルが煙に包まれ、炎上していた。現場に駆けつけたレポーターが「数十分前突然に超人会ビルが爆発した。何者かが爆弾を仕掛けたらしい」と捲し立てる(まくしたてる)ような早口で言っていた。夏季講習を行っている時間帯だったため、建物内に数百人の生徒がいたらしく、確認できただけでも死者は100人を超えていた。平成以降の最大の死者を出した殺人事件になったことは間違いないらしかった。達雄はおそらく目の前の人間がその事件の犯人であることに戦慄した。思い出した。『腹腹時計』は日本の極左グループである東アジア反日武装戦線が地下出版した爆弾の製造法についての本だ。手元に視線をやると、達雄の腕は震えていた。怖くて今にも叫び出しそうだ。

「浅島、お前さっき冗談だって……」

「いくら何でも全員死ぬ、なんてありえっこないだろ? だから冗談って言ったんだ。ぎゃはははっっ!」

 恐怖で何も言い返せなくなった達雄に向かって浅島は続ける。

「それに本気で超人会生が死ねば合格率が上がる……なんて考えているわけじゃない。ただムカつくだけなんだよ。頭の良い両親の子供に生まれ、高度な教育を受けて、経歴を得て、計画的なレールに沿った生き方をしているだけで……立派な大人になったと勘違いしてやがる。元々有名大学に進学することが当たり前でその為の教育を受けてきた奴らと、大学受験自体が珍しい環境で過ごしてきた俺たち。それで本当に受験は誰に対しても平等だと、そう言えるのか? 有名大学に進学したエリートたちは過酷な競争レースに勝ち抜いた勝利者か? ただズルをして、フライングしてただけじゃないのか?」

「………………」

 そんなことはない、そんな風に考えたことは一度もないと否定はできなかった。

「何も被害者面がしたいんじゃないんだ。俺らレベルの教育が受けられない奴だってゴマンといる。しかし、裕福に生まれた人間が成功して、貧困に生まれた人間が落ちぶれる。こうした構図が実際に繰り返されていることは明白だ。俺はただその出来レースをちょっとばかり妨害してやりたかっただけなのさ。その象徴である超人会を破壊することで」

 逃げよう。達雄は背中を見せないようにして後ずさりしようと思ったが、身体が硬直して動かなかった。熊田と初めて会った時と同じような金縛りが肉体を支配していた。

「おいおい、そんなにビビるなよ。お前は殺さない。受験の苦しみや辛さを分かち合った唯一の友達だからな。あと俺が殺したいのは熊田だけだ。あいつは爆弾なんかじゃなく、俺のこの手でぶっ殺してやる」

 浅島はそう言い残し、達雄とすれ違うようにしてその場から去った。達雄はもう浅島が帰ってこないんじゃないかという予感があり、実際その予感は的中した。浅島が超人会爆破事件の犯人として指名手配されるようなことはなかったが、浅島はそれ以降二度と学生寮に戻ることはなかった。

 浅島が消えてからというもの、超人会の事件は色々と波紋を呼んだが、それ以外のことは起きずに淡々と日々は過ぎていった。達雄は赤沢サクラとの約束を果たすため、黙々と膨大な量のタスクをこなし続けた。浅島にあんな風に指摘をされてしまってからなんだか大学受験に対する情熱は薄れてしまい、それだけが純粋な目的となっていた。

 そして、今日は名声会最後の授業だった。達雄は名声会の教室の最後尾の席に着席していた。おそらくこの椅子に座るのは最後になるだろうと思うと感慨深かった。授業はカリキュラム通り全て終了し、あとは熊田の激励の言葉だけになった。

 熊田は言った。

「こういうことを言うのは教師失格かもしれないが、今まで私たち名声会講師が君たち生徒に教えてきた知識は、その実空虚なものに過ぎない。しかし、その空虚な知識で掴み取った合格は本物だ。大学でできる真の勉強を、君たちには楽しんでもらいたい」

 大学合格に情熱を失いかけていた達雄にとってもその言葉は心動かされるものだった。受験の為に身につけてきた知識が虚しいことははっきりと自覚していたから、今更落胆することはない。むしろ今までの勉強だけに全てを捧げた地獄のような日々が報われるような、そんな気がした。周囲の生徒たちも同じことを感じているようで、中には涙ぐむ生徒さえいた。

 そこに。浅島は現れた。全てにケリをつけ、精算する為に。

「お涙頂戴な雰囲気のところ悪いけどよ、ぶっ殺しにきてやったぜ、熊田」

 熊田の顔が優しい教師の風貌(かお)から屈強な戦士の風貌(かお)へと変化する。そして、臨戦態勢を取った。

「浅島。授業に来ないで、一体何をしていた」

「愚問だなァ⁉︎ お前を殺す準備をしていたに決まっているだろう!」

「私を殺す? そんなくだらないことで他の生徒の邪魔をするな」

「くだらないのはお前の方だろ? 散々生徒の不安感を煽るアジテーションをしたくせに、今更反省した振りなんかしやがって! そのパフォーマンスもどうせ毎年やってるんだろう? 吐き気がする。何が『アイデンティティを得られる』だ、『何者でもないという呪縛に喘ぐこともなくなる』だ。そんなことは一切合切あり得ないんだよ。人生とは、病人の一人一人が寝台を変えたいという欲望に取り憑かれている一個の病院だ。人間の苦しみが消えることはあり得ない。人間というのは際限なく楽を求める生き物だ。その欲望に果てはない。もしあるとすれば、それは間違いなく世界の外以外にない。

——だから」

 浅島の言葉を熊田が遮った。それ以上言わなくていい、という風に。

「もういい浅島。お前は私の手で」

「上等だ」

 二人は同時に同じ言葉を発する。

「「ぶっ殺す!」」

 先に動いたのは浅島だった。一気に間合いを詰め、左足で踏み切る。

 そして右足を上げた。強烈な上段回し蹴りが熊田の左側頭部に炸裂する——!

 かのように思えた。

「甘いな」

「なッ……!」

 熊田左腕にてしっかりガード。浅島は瞬時に右足を戻そうとする。しかし、熊田の方が一歩早い。

「これでも予備校講師だからな。生徒の考えていることなどまるっとお見通しだ」

 熊田は右手でもって浅島の右腿を抱え込む。浅島が体勢を崩したところに、彼の顎目掛けて熊田の左手による掌底が叩き込まれる。

「がはッ……!」

 浅島は教室後方に吹っ飛ばされる。そして起き上がる暇を与えず、熊田は攻撃を続ける。マウントポジションで圧倒的優位を確保し、顔面への強烈なパンチ。一撃だけで終わるはずもない。何度も何度も。並の者では一撃で失神してしまうような打撃の連打。鼻骨を折られ、鼻血が大量に噴き出した。この劣勢の中、それでも浅島は諦めない。熊田は名前の通りの巨漢だ。組み伏せられ、マウントポジションを取られる想定はしてきた。その対策も。

 ——小柄な者が体格の優れた強者と戦うにはどうするべきか?

 まずは脳を揺らしてダメージを与え、失神させる。しかし、マウントを取られている現在の状況ではそこまでの攻撃はできそうにない。では、どうするべきか?

 回復不可能なダメージを与え、戦意を削ぐ。例えば噛み付き攻撃による身体の一部の欠損。いや、この場合有効なのは——!

「お返しするぜ」

 口腔内に流れ落ちた鼻血を吹き出し、熊田を一瞬ひるませる。右手で後頭部を掴んでこちら側に引き寄せ、左手の親指を熊田の右目に突っ込んだ。

 ぐちゃっ。熊田、右目を失明。

 だがそれだけでは終わらない。指を眼窩に突っ込んだまま、左方向に引っ張る。熊田の巨躯がいとも簡単に倒された。マウントポジション。しかし、両者の位置取りは先ほどと逆だった。

「形勢逆転、だな」

 残された目を潰してしまうことを考えたが、手を掴まれて何もできない状態で頭突きなどされたら厄介だ。では次に取るべき一手は——。

そこで浅島の思考は途切れた。後頭部への強烈な痛み。薄れゆく意識の中で、浅島は自分の敗因を悟った。

 戦うべき相手は熊田だけだと見誤ったこと。それが敗因だった。浅島を背後から金属製の椅子で殴りつけたのは、名声会の生徒たちだった。


 もはや語るべきエピソードは残されていない。達雄は猛勉強の日々を続けた。赤沢サクラの助力もあってか、達雄は最後の東大模試でA判定をもぎ取った。そして油断することなくタスクをこなし、晴れて東大に合格したのだった。






 御茶ノ水駅前のカフェ。浅島は原稿を読み終えて、私、赤沢サクラに手渡した。

「なんだこれ。達雄の合格体験記ってコンセプトはいいけど、最後とか駆け足すぎるだろ。それに俺と熊田先生のバトルとかいらないし。バイト先の社長と喧嘩する訳ないじゃん。最初はギャグだけなのに、段々バトル漫画と化していく少年ジャンプのギャグ漫画かよ」

「まあ合格体験記としては使えない代物かもね。でも小説として少しは面白かったでしょう?」

「いやリアリティなさ過ぎ。なんだよ、塾講師がキレて右目抉り取られるってエグすぎるわ! 本当は怒鳴られただけじゃん。しかも台本通りだし。普通に達雄が努力して合格もぎ取る話でいいんだよ。実際その通りなんだから」

 そう。奇しくも、私は名前の通りサクラのバイトをやっている。浅島はその同僚だった。名声会のような塾では東大合格者を一人出すかどうかで来年の入塾者の数が変わってくる。私は有望そうな生徒と接触することで、その生徒のモチベーションを管理することが役割だった。今年はその対象が達雄だった。功を奏して、達雄は東大に合格した。だから今日はバイト連中で打ち上げをしようということになったのだ。また私は達雄との会話を元に膨らませた小説を披露する算段でもあった。

「概ね熊田先生の目論見は成功しているみたいだったな。受験生は予備校講師にヘイトを抱えがちだ。しかし、両者は協力関係でないと受かるものも受からない。俺という迷惑な生徒を一人作って、熊田先生が叱り飛ばすことで好感度を上げる。まあ、お前の小説だとなぜか右目抉っちゃってますけど⁉︎ あと超人会爆発させるって何? いくら競争企業だとはいえ、そこまで憎んでるハズないだろ普通⁉︎」

「はいはい、いいからいいから」

 憤る浅島を軽くいなしていると、店内に増治が入ってきた。彼の仕事も浅島と同じ教室内でのヘイトコントロールだ。私の小説には、メガネの男として登場していた。

「おーっす。二人ともお疲れちゃーん」

「増治、遅いぞ! さっさと飲みに行こうぜ!」

 私は原稿をパラパラとめくって軽く目を通した。やはりいくら面白くするためとはいえ、暴力描写はやりすぎだったかもしれないな。もっと練り込みが必要だ。

 データはパソコンに保存しているから、もう原稿は必要なかった。私はテーブルの上の合格体験記もどきをぐしゃぐしゃに丸め、店内の片隅に置かれていたゴミ箱に向けて放り投げた。






 という妄想をしていた。浅島やサクラ、増治も現実には存在していない。存在しているのは達雄だけだ。僕だけだ。

 僕は故郷に戻るための列車に乗っていた。

「『人生とは、病人の一人一人が寝台を変えたいという欲望に取り憑かれている一個の病院だ』か。確かボードレールの言葉だったな……」

 一時の成功を得ても、人の欲望(ゆめ)は終わらない。生命が尽きるその時まで、際限なく走り続けるのだ。

「なーんてな……」

 もう夜中ともいえる時間帯の列車はどこか気怠さに包まれていた。列車は暗闇の中を疾走する。目的地は決まってはいるが、結局は往復する為に来た道を引き返す。まるで振り子みたいに。終着駅など、在りはしないのだ。

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受験戦線異状なし 足摺飯店 @yuki1220

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