第8話 唐揚げ

部屋を出た後、暗い廊下を歩きトイレに入った。ぎりぎりだった、と彼は思った。鮫島は爆発寸前であったが、ギリギリのところでそれを回避した。そのスリルを味わうことが、平は好きだった。

 しかし、鮫島が話した古文に対する思いを聞き、いかに他人に興味のない平でも、少しだけ心を動かされた。鮫島の言葉が彼の頭の中で何度も何度も反芻していた。大学の教師などその立場に胡坐をかくことが仕事で、プライドが服を着て歩いているのだと思ってきた。しかし、そんなイメージにひびが入った。

 鮫島が、漠然とした何かに立ち向かっているイメージが、平の頭の中で作り上げられ、子どものころに読んだドン・キホーテの主人公のイメージと重なった。平は鮫島を単なる賢い人間だと思っており、人間は賢くなればなるほどつまらない人間になるという思い込みを持っていた。そんな賢い人間が、何の役にも立たないかもしれない、子どもっぽい夢を抱いていたことに、動揺したのである。あの場では平静を装い、軽口をたたいてしまった。しかし、あの時言った言葉というのは、自分が嫌いな人間の言葉だったような気がした。様々な感情が頭の中で渦巻きながら、平は用を足した。

 「あぁ、唐揚げが食べたい。」と彼は独り言を言った。

 平は、週に一度だけ唐揚げを食べることにしていた。唐揚げは彼の好物の一つであったが、それを週に何度も食べると、得体のしれない罪悪感を覚えた。好物であるからこそ、それを欲望の象徴のように考えており、週に一度唐揚げを食べるということは、彼にとって欲望とうまく付き合うことを形式化したものだった。

 先ほどまで複雑な感情に苛まれていたにも関わらず、それらの感情は小便と一緒にボタンで下水に流してしまい、彼の思考は、どの唐揚げ屋にするかという難問に全精力を注いでいた。

 平は、いくつかの選択肢の中から、その時に一番食べたい唐揚げはどれかということを直感的に選び、その店へ向かった。そこは、大学界隈でそれほど人気がある店ではなかったが、しかし、人気がないということに天邪鬼なこの男は魅力を感じていた。人気がある人間も人気がある飲食店も、彼は信用していなかった。どうせ、そういう店は、調理の段階でうま味調味料を山ほど入れているのだという偏見を持っていた。

 その点、平が選んだ店の唐揚げは癖になるような強烈なうまみはなく、素朴なただ味付けをした鳥に衣をつけて揚げているものだった。家で食べるような普通の唐揚げだった。

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