第7話
一定の奇妙な幾何学的模様を施したアルミニウム合金の壁は、機械的で温度が全く感じられない。照明を極力落とした薄暗い空間で、点滅するビーコンライトだけを異常に眩しく感じながら、カイジは天上と床の区別がつかないトンネルの内部を歩いているような感覚に陥った。外部の音声に至っては一切遮断されている。遠くで聞こえる空調のプロペラの風を切る轟音と、響くように冴え渡る自身の靴音だけが鮮明である。
僅かに腕を持ち上げ時計を確認したカイジは、司令塔による呼び出しが掛かってから既に十五分が経っていることに苛立ちを覚え、時間に煩い上司の厭味を思うと微かに眉間を顰めた。カイジの所属する科学技術研究管理部の管轄エリアは、二百二十階である最上階に所在する。普段カイジの仕事場である研究室は百八十階。先程カイジが呼び出しを受けた時にいた場所は地下管轄への直通専用エレベーターホールのある十一階であった。研究室から向かえば五分と掛からない距離であるが、生憎高速エレベータが一基点検中であったのだ。
「…女性を待ち伏せさせる色男は時間にも余裕があるのかね、」
二十分遅れで参事官室に到着したカイジが入室するや否や、この部屋の主であるアーズから予想通り厭味が発せられた。カイジの所持する小型端末機には居場所を特定する機能があり、センタービルに張り巡らされているカメラにシグナルを送ることで、必要となれば絶えず情報得ることが出来る。アーズ程の上官になれば、一研究員であるカイジの行動は常に把握することは可能なのだ。
「済みません。」
抑揚のない落ちつた口調で簡素に謝罪の言葉を発すると、デスク越しにカイジに背を向けて腰掛けていた恰幅のいい男は、椅子が細かく軋む音と共にゆっくりと扉のある方へと向く。美しい姿勢を保ったまま軽く上半身を傾けたカイジを目にすると、デスクに厚着した肘を乗せて、両手の指先を組み合わせ奇妙な笑みを浮かべた。
「…イースト防波堤の決壊が絶えないそうだな。ここ最近の発電機の数値も異常が続いている。」
「はい。今季の熱帯低気圧は長期に亘り停滞をしております。降雨量は例年の五倍以上、空気中の二酸化炭素濃度も基準値をはるかに上回り、ICE・TOWNへも熱波が押し寄せ、昼間・夜間も連続で摂氏四十度以上という猛暑です。」
カイジは素早くデスクに歩み寄り、持っていたファイルをアーズの手元に置くと元の位置に戻る。彼は机上を一瞥しただけで、中身も出さずに脇に退けると徐に立ち上がり、部屋の中央に設けてある豪奢なソファルームへ赴く。大理石のフロアには、その一帯だけ不自然な赤いベルベットの絨毯を敷き詰めている。囲うように置かれたソファが何処となく発光して見えるのは、中央に存在する背の低い円錐状クリスタルガラスの塊の所為である。内部にカラーボールが施してあるのか、それは時折ぼんやりと色合いを変えた。
「君も座りたまえ。」
アーズは上等な革製のソファに落ち着くと、円卓となったクリスタルの一辺に設置してあるサイフォンとアルコールランプで珈琲を立て始めた。それを見届けたカイジは、本来の仕事は既に完了したのだと
近づくと、仄かに珈琲の薫りが辺りに立ち込めた。サイフォンの沸騰した湯が、コボコボと音を立ててロートへ珈琲豆と共に押し上がる。風もないのにアルコールランプの青い火が揺らめき、カイジは目を凝らすようにして暫くその様を見詰めた。
「…随分と古風な淹れ方ですね。」
湯が全て上がりきったサイフォンからロートを外し、アーズは並べてあったカップに二人分の珈琲を注いだ。
「銀桂入りの珈琲豆で淹れるときは此れが一番薫りも強くて旨いのだよ。」
銀桂とは主に熱帯地域に生息する常緑小高木で、この時期になると小さな白い花を付ける。
乾燥させた木花を珈琲豆に混ぜるという嗜好はカイジには理解不能であったが、珈琲独特の酸味の中から仄かに甘く、匂い立つようなその薫りは嫌いではなかった。
「…しかし困ったことに近頃、銀桂が開花を上手く行ってくれなくてね、手に入り難くなってしまったのだよ。口惜しいことにね。」
悲しさなど微塵も感じられないアーズのいつも通りの落ち着いた表情は、感情の起伏が存在するのか疑問である程だ。
ここ数年、植物、主に種子植物の生態が環境悪化に伴い著しく悪い状況であることをカイジは認識している。大きな原因は、許容量を超えた紫外線の照射である。
「プラントルームの植物相も一定の基準を超えると成長の退化や衰弱が顕著に現れております。種の保存技術は完璧なものの、それを咲かせ、成長させることは不可能になりつつあり、このまま行けば絶滅種の増進は食い止められません。」
このICE・TOWNの中枢基幹である技術研究棟は主にバイオスフィア、つまり閉鎖型人工生態圏の完成に向けて研究を行っている。熱帯雨林、サバンナ、砂漠、湿地、海洋、農地の生態系が人工的に再現される環境で、何世紀にも渡って人類が大望していた第二の生態圏である。そしてそれは恐らく今世紀中には完成する予定の筈なのだが、最近更なる問題が目下に迫っていた。アーズはその研究棟の責任者をしている男である。
「自然というのは飽く迄人間に逆らうものだ。何故共存しようとしないのか、我々が彼らに心地よい環境を提供する代わりに我々にその恵みを供与する。至って簡単なことだ。…この極限世界ではお互い支え合って生きて行かねば共倒れしか待ってはおらんと言うのに。」
頷くことで肯定し、空になったカップを静かに置く。カイジは先程から目に付くアーズの意味深な笑みの理由は判っていた。口ではお互い仕事の会話をしているが、実際彼の知りたいことは研究の進み具合だけではない筈なのだ。
「そしてそれを食い止めるのは貴方を筆頭にした私たちチームの務めです。」
カイジは真っ直ぐに視線を、終始微かな笑みを口元に浮かべている男に向けた。それを受け止めると男は益々深意的な笑みを濃くする。
「…私たちとは誰のことだい。」
「…。」
部下である青年が押し黙ると、アーズはほくそ笑むようにして背凭れに上半身を沈ませた。
突然冴えた電子音が響き渡ったかと思うと、来客を知られるランプが点滅していた。アーズは目に見えて不機嫌な顔をしてソファを立ち上がる。モニタの前で二言三言を話すと、カイジの方へ向けて大袈裟に肩を窄めるようにして見せる。
「午後から上層部の会合なのだよ。…全く、年寄りが顔を見合わせて何が楽しいというのだろうね。」
アーズが席を外すと同時に素早く腰を上げていたカンジは、既にデスクの前に待機していた。
「お忙しいようなので私もこれで失礼します。」
軽く一礼してこの場を立ち去ろうとしていたカイジは、顔を上げた先にある男の笑みが未だに気持ちの良いものではないこととに気付いた。
「君はこの後、甥御さんに会うと言っていたね。」
「はい。甥が見学をしたいそうなので。」
「そうか。手厚く案内してあげるといい。」
「…肝に銘じておきます。」
カイジはこの男の性質を知っている。本心や根本的なことはいつも必ず最後に言うのである。普段彼から気の利いた言葉など耳にすることはないので、用件の続きを予感した。一息吐くように言い淀んでいる男の言葉を待つ。
「勿論“彼”も一緒なのであろう、」
「…ええ。」
カイジが短く答えると、満足したように口の端を上げ大きく頷いた。もう伝えるべき事柄は聞き出せて、自分は用済みなのだと判断したカイジは、踵を返そうとした。
「…ああ、そうそう。君を待ち伏せしていた彼女だがね、」
唐突に先程のユンナのことを指される。カイジは次の言葉が、呼び出されてからずっと予期していたものだろうと密かに思う。いつの間にかカイジの背後に立ち、彼の肩に手を乗せていたアーズが耳元で囁く。
「念入りに“掃除”をしてあげたまえ。」
そう言い残すと、男は上官服へ着替える為に奥の更衣室へと消えた。カイジはそれを聴覚だけで追い、そのまま無言で扉へ歩み寄ると、再び一礼をして部屋を後にした。
続く
ICE・TOWN 宇宙音 @tsurusawa22
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