天国の立証条件
「棗先輩っ! ドリンクです!」
休憩を報せるホイッスルがグラウンドに響き、世界で一番綺麗な存在が、この世界で一番最悪な生き物の蠢く地獄からすり抜けるように走ってきた。
「ありがとう、藤野」
俺に笑顔を向ける、世界で一番綺麗な存在──藤野。醜悪なヘドロから出てきたのだからどこかしら穢れてそうなものなのに、今日も今日とて藤野は一点の邪悪さも感じさせることなく、朗らかとしている。ただ、美しい時間程永遠に続かない。藤野は「ではっ」と言いながら他の部員にもドリンクを配り始めた。そんなところも好きだ。前の女子マネージャーは俺にしかドリンクを渡さず、他の部員は自主的に取りに来るシステムにしていた。全員取りに来るような仕組みづくりならまだしも、俺だけ渡して来る。気持ち悪い待遇だ。ひときわ、特別扱いなんて耳障りのいい言葉があるが、ようは差別だ。サッカーに必要な公平性とはかけ離れている。さらに挙句の果てに俺の飲み物に異物を混入させ退学になった。
それが、一人や二人じゃない。小学校中学校高校と俺に関わった女子マネージャーは、部員のフォローではなく俺への異物混入か窃盗しかしない。表向き他の部員と俺と区別せず接する化け物もいたにはいたが、結局異物混入か窃盗をする。足すか減らすか、どちらかだ。
そんな歴代の犯罪者と比べるのも申し訳ないが、全員にマネージャーとして接し、飲み物になにか混ぜることも俺のドリンクボトルを持っていくこともしない藤野は、俺の彼女であるという事実を抜きにしても天使に見える。天使かもしれない。
「相変わらずお前目当ての女子はすげえなあ棗ぇ〜」
グラウンドのラインの外、観客席という名前だけで実際のところボールも見なければゴールも見ず、漫画では「きゃあきゃあきゃあきゃあ」と台詞としか表現されない女たちを一瞥しながら、金内が言った。
「今日は余計酷いんだよ。深見もいるし、深見目当ての犯罪者予備軍と俺の顔目当ての犯罪者予備軍で」
藤野は元々サッカー部にいたわけではなく、一年生のころは風紀委員会に入っていた。そして二年生に進級してからも、風紀委員会に入っている。そして今日は「キョーカチャン」とその「キョーカチャン」の彼氏である深見、その他風紀委員会の愉快な仲間たちが観戦に来ていた。俺は風紀委員会の愉快な仲間たちを快く思っていないものの、そちらのほうがヘドロの群れよりきちんと部活を見ているし、ボールの動きを目で追っている。だからか、俺が一方的に逆恨みしている図式になっていて、嫌だなとは思う。
もっと嫌な奴らだったら、「マネージャーに専念すれば」なんて言えたのに。
藤野が思い入れを持つ場所だ。だから、どうにもならないし、どうにもしない。ただ、もやもやはする。なんかあったとき、藤野には風紀委員会じゃなく俺を選んでもらいたい。沢山いる藤野の関係者の中から、思い浮かべる存在は俺であってほしい。
後から現れた俺には、もう無理な話しだけど。
「つうかさ、お前事実だけど自分の顔目当てとか言っちゃだめだぞ。事情何も知らないやつが聞いたら相当な奴だと思われるから」
黙っていると、金内が心配そうに言う。ずっと一緒にやってきたから、金内の考えていることはすぐに分かる。本気で注意するつもりはなく、あくまで話をそらすためだ。金内が本気で注意をする時は、「おい」と必ずツッコミが入る。「おい」のワンクッションが入るし、ゆえに後輩部員は金内の「おい」を警戒する。
「どうでもいい。藤野から嫌われなければ。っていうかクソバカゴミ人間のせいで何もせずとも好感度は下がっていくしな」
「ああ、お兄さん? なんか藤野さんが会って嬉しかったって言ってたけど、更生したん?」
「分かんない。一人、ちょっと石崎鏡花に似てる大学生くらいの女追っかけて、俺は浮気してないって自分のズボン下してる」
「捕まるじゃん。深見ファザーの出番じゃん」
「そうだよ。だから言った。捕まえてほしいって。そしたらちゃんとお父さんに言ってくれたらしくて警備強化された」
兄貴は、死刑になってほしい。でも今の政治では、兄貴を死刑に出来ない。早く法律が変わればいいのに。そして兄貴は酷い素行態度にも関わらず、ちょくちょくテレビに出たり、メディアの露出が増えてきている。並行して「俺は浮気してない! 緋奈さん一筋だって言ってるじゃん!」と顔のみならず下半身まで露出しているというのに、恐ろしい話だ。警察は機能してない。ただ深見の顔がちらつく。深見は深見で頑張ってる気がするけど、兄貴を捕まえてくれないのは困る。
「まじか! それで素行態度良くなったとかないの?」
「ないけど俺の家に不法侵入してくる女は減った」
「……なるほど」
金内が露骨に気まずそうな顔をする。全日本女難コンテストがあれば、俺が絶対に一位を取っていると思う。
「まぁ、状況的には良くなってるんじゃない。部活と一緒で」
近くの男子校で、男子生徒による脱水の死亡事故が発生した。水分と休憩のない活動を強いられた結果らしい。行き過ぎた指導による過失が早々に認められたそうだ。俺の学校でそういうことは無かったけど、他校の交流試合とかでヤバい教師に犠牲にされる奴らは良く見てたから、良かった。
「っていうか昨日、怖えことあったんだけど聞いてもらっていい?」
「なに」
「お前が好きなデスゲームの漫画あったじゃん。最後全員死ぬやつ」
「おは獄?」
俺の本棚には、サッカー漫画しかなかった。でも、こんな風に残酷に兄貴殺されねえかな、と思いながら読んでいくうちに、本棚がサッカーサッカーサッカーおは獄サッカーサッカーサッカーみたいになった。藤野にすすめたいけど、人が死んだりするからすすめづらい。
「あれの黒幕にすげえ似てる奴見かけてすっげえ怖くてさ、そっくりなの、雰囲気ももろみたいな。殺されるかと思って、制服も同じで」
「ハロウィンみたいな催しあったんだろ」
「いやでもそのものだったんだよな、黒髪ポニーテールの女の子と一緒にいて」
「はぁ……」
「お前信じてないだろ」
「信じてないっていうか、出来のいいコスプレイヤーをお前が見間違えたと思ってる」
「俺は弟が掴まされかけた本物のカードと偽物のカードを見分けた男だぞ」
「そうだった、お前はそういう奴だったな」
「待って標本は壊してないし多分違う」
金内は適宜つっこんでくる。こういうやり取りが一番楽だ。
「……どうだった、デスゲーム開きそうだった?」
「わっかんね、触れちゃいけない感じはあった。すごい、綺麗というか、なんだろ、イケメン! 素敵! 眼福! みたいな棗目当ての女が言うような感じじゃなくてさ、詫び錆のさぁ、行ったじゃん、修学旅行で行った庭園みたいなところ、そこで息のむ感じの綺麗な感じだった。だから、そういう意味でも怖かった」
「松戸とか日野系?」
「それだ! そんな感じ」
松戸円、兄貴の女の姉だけど、兄貴目当ての女に声を無限にかけられる中、松戸円目当ての男にまで声をかけられるようになったら、それこそ、兄貴以外の家族と藤野の関係者と俺の部活の関係者以外全員皆殺しにしてしまう。
「……お前松戸円好き?」
「俺には心に決めた相手がいる」
「あかりちゃん。ひらがなであかりと書きます。苗字は果崎あかりと申します。引き続きどうぞ宜しくお願いいたします」
「誰」
「アイドル」
「へー」
通っているジムの一番マッチョの連れが光と書いてあかりと読む名前だった。色んな名前があるなと思う。あだ名だったり、ハンドルネームだったり。
「休んでたんだけど、最近活動再開し始めたし、これからメディア露出も増えてくるソロアイドルです、よろしく」
「出てたら見とくわ」
「ハマってくれたら嬉しい。同担最近連絡つかなくなっちゃったから」
「まじか」
「うん。ネットでバッジの交換とかしてて、直接会ったことないんだけど、ハンバーガーショップでバイトしてるのは知ってて……」
「そっか、でもソロアイドルでバッジの交換ってあるの」
「パターン替え特典が世にあるのです。青いあかりちゃん、赤いあかりちゃんとか」
「大変だぁ」
「物欲センサーがあるから、そのうちご尽力賜りたく」
「俺、そういう運死んでるからなぁ」
俺はそう言って、泥ドブクソ地獄の中で光る、この世界で最も綺麗な存在を見る。顔がどうとかじゃない。ただただ、存在が綺麗だ。欠点もあるだろうしこれからそういうのが見えてくるかもしれないけど、藤野の存在が、泥ドブクソ地獄の跋扈する世界に俺を留めていることに変わりない。
「生きてて良いことあるもんだな」
俺は呟く。無意識のうちに出た言葉だった。
俺の好きな漫画で、金内の怯えた黒幕は最後、選ぶ。最終的な判断を下すというのが正しいかもしれない。どうしようもないと絶望して、折り合いをつける。
でも、まだ絶望する必要はないと、思う存在がいたら違っていたんじゃないかと、藤野を見ていて思うようになった。
地獄の中に少しは天国があるかもしれない、それはすごく幸せな世界じゃなくて、他人から見たら安っぽいものかもしれないけど、俺にとっては呼吸が出来るというだけでそこが天国だ。
そばに藤野がいるのなら、そこが天国だ。俺は女が嫌いだし、藤野以外の女と接するなんてぞっとする。でもそれは他の女を切り捨てているんじゃなくて、絶望しているんじゃなくて、藤野が途方もなく好きで、藤野がいるのに何故ほかの女を見なくてはいけないという独占欲だ。
だからこそ、俺はそれを伝えない。伝えないまま死に至ることを望むし、藤野に飽きられたら身を引く。
「俺は兄貴とは違う」
兄貴は、最後の最後まで足掻くだろう。でも俺は違う。
「悪い顔してるぞ」
棗が怖がってくる。
「だと思う」
兄貴と俺は違う。でもきっと、同じように悪い。
そして、たぶん同じように、好きな人が、好きだ。
終末期の初恋証明 稲井田そう @inaidasou
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