終末期の初恋証明

稲井田そう

初恋


 真っ青な空の下、冷たい一月の風を切りながらグラウンドを駆けていく。自分の足元に戻っては離れるボールを操りながら、キーパーの待つゴールを目指す。最後には、回転をかけて蹴り上げた。


 ボールはゆるやかな弧を描いて加速していき、やがてゴールネットを揺らす。同時にこの神聖なサッカーフィールドを囲う、世界で一番最悪な生き物——女たちが黄色い歓声を上げた。


 わーっとこっちに手を振ったり、笑みを浮かべて見惚れる群れを見る度、一思いに火を放てばどんなに清々しいだろうと思う。今もどこかでこの青空の下、女と戯れているであろう兄貴とともに。


「相変わらずお前目当ての女子はすげえなあ棗ぇ〜、藤野さん効果は持ってひと月って感じかあ」


 ネットに絡めとられていたボールを拾いながら、キーパーの金内がこちらに笑いかけてきた。俺は「休憩すっか」と呟いて、金内とともにゴールの端に立つ。


 他の部員が練習しているのを眺めていると、金内が女子たちを嬉しそうに指した。


「明日から観覧料取ろうぜ。二クラス分くらいいるしさ、一人千円にしたら八万くらいなるんじゃね? お前の笑った写真つきは二千円にして」


「女の前でなんか笑えるか。しかもそれ西山先輩が前にも言ってた。警備もするから、集まった金、半額寄越せって」


「うははは! まじか!」


 どうやら笑いのつぼに入ったらしい。金内は両手でボールの感触を確かめながら、腹を抱えて笑っている。


 西山先輩はこの高校で有名なクズだ。


 風紀委員長の立場を利用して、没収したゲームを勝手に校内で売りさばき、停学になりかけたことは記憶に新しい。荒れ果てた素行のわりに、今なお風紀委員長の座に居座っている。もうすぐ卒業だけど。


「あの人全然ブレないなぁ。全力でクソじゃん。腹痛え」


「俺の兄貴といい勝負だわ」


「あー、入れ食い食べ放題なんだっけ?」


 西山先輩と同等——いやそれ以上のクズである俺の九つ上の兄貴は、本当に女癖の悪い男だ。自分の友達の姉妹も、誰にでも平気で手を出す。仲間内で女を落とす賭けをして遊ぶ。俺の家庭教師に手を出して弄んで捨てるなど、好みの女なら誰にでも手を出すゴミだ。


 同時並行で複数の女と付き合うことのほうが多く、飽きたら速攻捨てる。相手が本気で告白してきたり、少しでも独占欲を見せたら即アウト。曜日別どころか日ごと彼女を変えるカス。歩く公害。痴情型サイコパス。


 あいつが生きていることが、性悪説の絶対的な証明であり、生きることで無尽蔵に不幸を生む。全自動不幸製造機だ。


 俺は兄がクズだと分かったうえで好きになり、「捨てないで」「会わないなんて言わないで」と化粧を崩しながら泣き喚く女を、もう何百回と見ていた。


 でも、兄貴を求めて捨てられる女は後を絶たない。


 理由は至極当然で、兄貴は女に好かれる顔をしているからだ。


 そして最悪なことに俺は兄貴と顔が似ていた。奴に遊ばれた女たちは、皆俺を求めてきた。


 お前の兄はクズだと罵倒してくることが最も善良な反応で、たいていは俺を兄の代わりにしようとしたり、兄への当てつけに俺へ告白して来たり、兄に嫉妬させようと迫ってくる。


 そうして幼い頃から女の最悪な部分を見てきた俺は、女という生き物が無理になった。


 そんな俺の心中を知ってか知らずか、金内はこちらをあやすみたいに頷く。


「棗、ほんっとーに兄貴のこと嫌いだよなぁ〜」

「当たり前だろ、あいつのせいで俺は女がいる高校に通うことになったんだから」


 元々、通う気などなかったのだ。女のいる共学なんか。


 俺は元々中高一貫校の男子校に通っていた。もちろん女を避けるためだ。小学校は女と関わらぬ為に、死ぬほど受験勉強をした。にもかかわらずクソ兄貴が俺の中学の担任の女教師とその姉に手を出し、二人が校内で兄貴との仲を取り持てと俺へ迫り、騒ぎになったのだ。


 そのせいで俺は別の高校へ進学せざるをえなくなってしまった。


 男子校を受験しようとしたけど俺の兄の悪評は広まっていて、また問題を起こされては叶わないと全部落ちた。


 テストだって、間違いなく上位であったのに。


 俺はこんな、ただ偏差値高いだけの高校じゃなくて、サッカーの強豪校に行きたかったのに。


 今日も今日とて俺の人生は兄貴によって狂わされ続けている。


「でも、藤野さんと出会えたんだから、この高校に入って良かったじゃん。運命ってことで……あ、噂をすれば」


 金内が横に目をやった。視線を向ければ、グラウンドの端から華奢なジャージの女子……藤野がサッカーボールを片手にこちらへ駆けてきていた。


「棗部長っ後藤先輩っ、ボール、あっちの校舎のところに落ちてて、空気入れて来ましたっ」

「おう」


 ポニーテールを揺らし、息を整える姿をなるべく見ないようにして、ボールを受け取る。藤野は「じゃっ、私は測定器持ってくるんで!」と明るい声でぱたぱた駆けて行った。


 甘くて石鹸っぽい匂いが薄くなるのを待ってから、俺は大きくため息を吐く。


 俺の一つ年下の後輩、藤野未来。十月末の文化祭が終わった頃、明らかに中途半端な時期にマネージャー志願で入ってきた。そして、「棗先輩の彼女も目指したいんです!」なんて言ってきたとんでもない後輩だ。


「なんでため息なんて吐いてんだよ棗え〜! それが彼氏の態度か〜?」

「うるせえ」

「うるせえじゃねえし。お前といて俺にも話しかけてくれる女子なんてあの子と西山先輩の妹くらいだぞ? 超いい彼女じゃん。優しくしてやれよ」


 金内に返事をすることなく、砂一つついてないボールを撫でる。どうせ蹴って汚すというのに拭いたのだろう。顔を上げると、校庭の隅で藤野がそっと指先だけを動かすように手を振っていて、黙ってうなずいた。


 俺は今現在、一応、広義的な意味合いから言えば、とりあえず藤野の彼氏になっている。


 といっても仮だ。


 あいつが入部して二週間後に告白され、「試しでいいなら」と答えた。


 女は大嫌いだけど、俺はそれ以上に女に付きまとわれることに辟易していた。藤野は校内一の美少女と称され、男子の注目の的だから丁度いい防波堤になる。多数に追い回されるより、一人に時間を食いつぶされるほうがましだ。


「すーげえ久しぶりな感じない? 十二月とか、委員の仕事で藤野さん、わりと部活や休んでたし」


「ん」


 十二月、そのワードで嫌な話を思い出した俺は、金内への反応がおざなりになってしまった。奴は俺の反応に生ぬるい、にやにやした視線を向けてくる。


「何? もしかして今日この後デート? なんか棗ヘンだぞ」


「まあ。ちょっとだけ俺の家寄る」


「うわ、うわっ、うわーのやつじゃんそれ」


 金内が俺の周りをちょろちょろと跳ねだす。別に今日は、どうしても見せなきゃいけないものがあるから家に呼ぶだけだ。本当は藤野を家になんて入れたくない。それどころか、あいつを連れて家の近くにだって連れて行きたくないのだ。


 付き合っているといえど、結局は仮。俺があいつを防波堤にしていることに変わりはない。


「違えしバカ」


 持っていたボールを金内にぶつける。そして俺は呪う気持ちで、グラウンドに集う最悪な生き物たちに目を向けたのだった。





「あっ、せんぱーいっ!」


 部活を終え人目を避けて校舎から出ていくと、今度は学校指定のダッフルコートを着た藤野がぶんぶんこちらに手を振っていた。あいつが手を振るたびに鞄につけている缶バッジや鞄のストラップが動きに揺れ、がしゃがしゃ音を立てている。


「あんま手振るとその猫引きちぎれるんじゃないの?」


「えーっ大丈夫かな……。せっかく西山先輩に貰ったのに……!」


 藤野は慌てて缶バッジを確認し始めた。咄嗟に触れたものが猫じゃなく缶バッジだったことに、胸のあたりがもやもやする。


「今日もなんか、結露? っていうんですかね? 温度変化で濡れちゃってて〜慌てて拭いてたんですよ〜。取れちゃったりしたらどうしよう」


 なら、いっそ鞄の奥深くにしまっておけばいいのに。口から飛び出しそうになるのを堪えて、駅に向かって歩いていく。


「まだまだ寒くなるらしいですよ〜! 大雪になったらこの坂スキーみたいになっちゃいますよねえ。近所の人、どうするんだろう」


「外出ない、とか?」


 雪が降れば、学校が休みになるとか、そういうことで浮かれるだろうに。


 学校近くの人間のことなんて考えて、どうするんだか。


 横目で見やると、藤野は鼻先を赤くして白い息を吐いていた。華奢な指先をこすり合わせて、身を縮めている。


 柔らかい色をしたピンクのマフラーを巻いているけど、足りないのだろう。外で俺を待っていたわけだし。


「ちょっと、止まって」


「へ?」


 俺は自分が巻いていたマフラーを外し、ピンクのマフラーの上から藤野の首にぐるぐる巻きつける。真っ黒で柄一つない男物は、茶色がかった髪には不釣り合いな気もするのに、馬鹿みたいに心が満たされた。


「先輩が寒くなっちゃいますよ! だめですよ!」


「練習終わりだし、代わりに巻いておいて」


「あ……はーい!」


 藤野は俺の言い訳に納得した様子で、「あったかーい」と浮かれた様子だ。くだらない。マフラーくらいでそんな喜んで。何なんだ。


 べったべたの砂糖くらい甘い笑顔から視線をそらして、空を見上げる。最終下校時間が、今月から一時間繰り上げとなっているから、まだまだ日は沈みそうにない。浮かんでいる雲は、夕日を帯びることなく淡い青に透けている。


「委員会、どう。……最近」


「楽しいですよ〜! あっそうだ。今度風紀委員会のポスター、新しくなるんです! 西山先輩が絵を描いたんですけど、色塗り私もお手伝いしたので見てくださいね!」


「深見は? 来年委員長になるんだろ」


「はい! だから鏡花ちゃんも来年風紀委員会に入ると思うんですけど、また来年皆で委員会出来たら嬉しいなあって」


 藤野は、来年も風紀委員会に入るらしい。自分で深見について聞いておきながら、胸がぎりぎり痛み始めた。


 ちょうど今からひと月前、十二月の上旬。俺は藤野と同じ委員会の中岡が藤野について呟いた声を、偶然聞いた。


『藤野が深見に告白して、石崎が藤野を……? あれでも今藤野ってサッカー部入って部長を追いかけ……? あ……?』


 なんて、中岡は頭を抱えながらm黒板にハートマークと矢印だけを描き、死んだような顔をしていた。

 

 普段クラスでおちゃらけているあいつが心底悩む姿からして、本当のことなのだろう。


 成績は学年トップ、生真面目で神経質なところ以外目立った短所が一切ない。


 学校一の優等生である深見。


 あいつのまじめすぎる性格が知られていなかった頃、女子人気は凄まじく、告白は何度もされ、囲まれたこともあったらしい。だが、あまりに淡々としすぎる態度に、女子たちの好意は悉く粉砕され、今では鑑賞だけされている。


 深見の存在は元から妬ましかった。俺が練習中静かにしてほしいと注意しても、結局女子たちは喜ぶだけだ。でも、あいつに注意をされ喜ぶ女子生徒はいない。冷たい物言いに顔を青くして、そっと奴を避けるだけだ。告白もされているけど、女たちが引きずる様子はない。


 あいつに振られたから、俺のほうに来た女子たちも多いだろう……今隣を歩く、俺の仮彼女のように。


 藤野はどうやら、文化祭の時に深見に振られたらしい。高校の時に彼氏を作っておきたいのか、モテるから防波堤を俺みたいに探しているのか、兄貴を追う女みたいに顔に惹かれてるのかさっぱり分からなかった俺は、大晦日までずっとそのことで悶々としていた。


 しかし一月。今年の初めに、元旦の初詣に並んでいた際、藤野は言ったのだ。文化祭のお化け屋敷で猫に助けられたと。


 文化祭、俺のクラスはお化け屋敷をやっていた。俺は受付なんて女に群がられるから絶対やりたくないし、当日何もしないのがいいと言ったけど、準備期間は部活をしていたせいで仕事は当日分しか残っていなかった。


 結局お化け役に回るしかなく、俺は俺だとバレないよう、でかい化け猫の着ぐるみを被った。


 委員を務める男子には、お化け屋敷に着ぐるみなんてと言われたけど、黙らせた。そして当日、そこに藤野が来たのだ。


 少しぼーっとした様子で、なんとなく流されている感じでお化け屋敷に来ていた藤野は、一緒に入っていたグループとはぐれていた。俺のクラスのお化け屋敷は、入ってから出るまで四十分かかる。


 藤野がアイドル扱いされているのは有名な話で、噂と違わぬ顔の作りだ。廊下で待たせたら、変に囲まれこちらに迷惑がかかる。俺はお化け屋敷の裏手に藤野を招いて、本来ならお化けの——俺の待機場所に、あいつを置いた。


 当時は本当になんとなくの行動だった。群がられることに同情的な気持ちが湧いていたのかもしれない。着ぐるみを被り、久しぶりに女子の目が気にならなかったこともあるだろう。


 結局四十分他愛もない話をして過ごしたけれど、藤野にとっては貴重だったようで、一生懸命俺を探していたらしい。


 同じクラスの奴でも一部の男子生徒しか知らない化け猫の正体は、文化祭翌日に俺だと暴かれてしまった。


 理由は誰かが口を割ったのではなく、俺と同じクラスの中岡に委員の伝達に来た藤野が、俺の声を聞いてというものだったから、誰も責められない。


 藤野曰く、俺を探すことに長期戦も覚悟していたらしい。「その日はたまたま驚く出来事があってぼーっとしてたんです」と聞いたけれど、要するに深見に振られ初めての失恋に呆然とした中、俺との他愛もない話に救われたようだ。


「先輩、じゃあここで」


 藤野の声にはっとした。いつのまにか俺はずっと黙ったままで歩いていたらしい。周りは夕焼けに染まっている。


「マフラー、ありがとうございました! とってもあたたかかったです!」


 ぴたりと立ち止まり、藤野は黒いマフラーを外そうとした。俺が距離を詰め、上から手を重ねて阻止すると、藤野がきょとんとした顔をした。


「せんぱい?」


「今日、ちょっとだけ俺の家に寄ってくれない?」


「おうち……でも、もう時間遅いですよ? ご迷惑になりませんか?」


「すぐ済む。一分……いや五分もかからないから。見せたいものがあって……終わったらちゃんと送るから」


 時間が惜しい。早く藤野に見せなければいけない。俺は華奢な手を取って、そのまま自分の家へと進む。始めこそ戸惑っていた指先は、やがて俺の手を握り返してきた。


 ぎゅっと、潰すくらい握りそうになって俺はわざと大きめに声を発する。


「なんなら、ギターとかも、あるし」


「聞かせてくれるんですか? 先輩がギター弾くって初めて聞きました! えー! いつからされてるんですか?」


「中学。あと……後、バイクもある」


 ギターもバイクも大好きだけど、どちらも兄貴から「なにお前モテたいの〜?」なんて言われてから、趣味や嗜好を人に隠すようになった。「サッカー好き、ギターやる、バイク乗るって完全にモテたいからじゃーん! 女紹介してやろっか?」なんてクソみたいな声が頭の中に木霊しているけれど、今日は藤野に家に来てもらわないと困る。


「そういえばバイク! キョーカちゃんが免許取ろうかなってこの間言ったら、深見先輩が止めてたんですよー」


 聞きたくない名前が、二連続で来た。


「キョーカちゃん。バイクがあれば配達のバイトが出来るから、免許に興味あるみたいで……そしたら深見先輩があんまり……って。私も応援したかったんですけど、でも、キョーカちゃん疲れるまで働いちゃうところあるから、事故とか遭っちゃったらって……」


 キョーカ。

 キョーカ。

 キョーカ。


 深見の名前を聞きたくないのは言わずもがなだけど、同じく聞きたくない名前がキョーカだ。漢字はわからない。苗字は石崎だ。藤野と同じ学年の女子で、どことなく幸が薄そうで地味な印象の女だ。


 そして藤野が、彼氏である俺より優先するやつだ。


 部活が遅めに終わった帰り、誰かと帰るのか問えば「今日キョーカちゃんと待ち合わせしてるんですっ!」と藤野は笑う。


 休日の予定を聞けば「あっ先輩聞いてください! キョーカちゃん、バイト減らしたので私と遊べるようになったんですよ!」とまた笑う。


 クリスマスだってそうだ。「キョーカちゃん退院するんです!」と喜んでいた。


 相手女だし。


 浮気とかじゃないからいいけど。


 別に俺が先に誘って約束破ってきたわけじゃないし。部活忙しいし。


 付き合ってって、あっちから言ってきたのに。まぁ別にいいけど。


 もやもやと、そんなことばかり考えてしまうから、キョーカという名前は聞きたくない。


「先輩?」


「なんでもない。寒いし、ココアとかも出すから。ギターとかバイクとか、色々見せたいものもあるし、すぐ済むし、家寄ってほしい」


「……? わかりましたっ!」



「ん」


 藤野の笑顔を見ないようにして、俺は前を見据える。


 今日は、家に兄貴が来る日だ。


 絶対高校時代にデキ婚して、中退して家を追い出される。そんな進路を辿ると思っていたのに、兄貴は普通に美大を卒業して、一人暮らしを始めた。


 それから奴と家の付き合いは、盆と正月は連絡のみ。あとはごく稀に家に寄るという淡白なものだ。


 兄貴は女に対しては全く節操がないし、常識も死んでる。でもきちんと家に来る前にお伺いを立てる思考はあって、五日前に両親から、今日の夕方に奴が家へ来ると聞いた。


「でも、私今日お土産とか持ってないので、コンビニとか寄ってもいいですか?」


「気遣わなくていいよ。ただ兄貴殺して見せるだけだし」


「え?」


 藤野は首を傾げた。あざとい。あざとい。あざとい。そう思うのに胸が締め付けられて、可愛くて、守りたい気持ちが湧いて本当に嫌になる。


 一緒に過ごして、もう二か月。


 始めこそ防波堤としてしか考えてなかった。


 なのに藤野は、俺目当てでサッカー部に入った割に、熱心に部活に取り組む。まっすぐな言動とか、ほかの女子を見下さないところとか、仕事代わってもらったら、また新しい仕事探すところとか、ただ学校でアイドル扱いされてる女だけではない面を知るたびに、俺の心臓はぐちゃぐちゃに潰れるように痛くなった。


 どうせ俺は深見の代わり。


 そう思いたいのに、藤野は俺を見てるような言い方をする。


 私を助けてくれたヒーローの猫さんなんて言われたくなかった。


 あれから猫が好きで、キーホルダーを猫にしたんですとか、絶対言ってほしくなかった。


 先輩と話が通じるようになりたいからと、サッカーのルールを覚えて欲しくなかった。


 会えて嬉しいとか、声を聞いたとき、絶対この人だと思ったとか、見つけられてよかったとか。


 少し取り繕って外面良く接してたのに、お化け屋敷の時みたいな、普通のほうが好きとか、簡単に言ってきて。


 別に何もされてない深見とか、キョーカに対して、嫌な気持ちになって。


 深見の代わりのほうがまだ良かった。というかむしろ、キョーカが好きなら良かった。


 男が恋愛対象で、俺が好きなら、絶対藤野は兄貴を好きになる。


 これまでの女は皆そうだった。「大変ね」と同情してくれた女は兄貴目当て。「私は棗のお兄ちゃん好きじゃないから安心して」と励ましてきた女は、捨てないでと兄貴に泣いて縋った。


 俺は、藤野が兄貴に惹かれて壊れて捨てられる姿なんて見たくない。


 ……違う。俺は藤野が兄貴を好きになるのを阻止したいんじゃなくて、きちんと証明がしたいだけだ。


 俺は始め、藤野を防波堤扱いして、お試しでいいならとその好意を雑に扱った。


 利用しようとした。


 それを伝えてしまえば、きっと藤野は俺への信頼を無くす。謝っても許してもらえるかわからない。


 だから兄貴を殺して、きちんと藤野への気持ちを証明する。


 俺は藤野の手を引いて、どんどん足を速めていく。やがて俺の家が見えてきて、手を繋いでいないほうの手で鞄を肩から下ろした。中にはハンマーが入っている。藤野の大切な『キョーカちゃん』は刃物で襲われたらしいから、辛い思いをさせたくないと工具用のハンマーをじいちゃんに借りた。


 完璧だ。兄貴殺して埋めて、きちんと藤野に俺から告白する。駆け足にならないよう気を付けていると、叫び声が聞こえてきた。


「挨拶しよ? 挨拶! そしたら信じてくれるでしょ? 遊んでた女は母さんと父さんには会わせたことないから! 本当に! だって彼女面されたらまじできもいっしょ?  ほら! 入って! 紹介するから! 俺の本気分かって! 大丈夫だから! 愛の証明だよ!」


 聞こえてきた声に嫌な予感がしていると、視界に入ってきた光景に愕然とした。


 俺の家の前で、男が女子大生くらいの女の腕を引き、執拗に家の中へ引きずり込もうとしている。全力で逃げようとする女と、叫ぶ男。言い逃れできない誘拐の現場に、藤野が「あっ」とスマホを取り出そうとしたのを、手で制した。


「せ、せんぱい?」


「あれ、俺の兄貴……だと、思う」


 腰を落とし全力で抵抗する女を、同じように腰を落として綱引きみたいにしている男の顔は、間違いなくクソ兄貴のものだ。


 背格好も、服装の感じも同じ。下品なことばかり言う声も、兄貴と同じだ。ただ信じられないのは、女を実家に引きずり込もうとしていること。


 今まで兄貴は家の中に女を入れたことがない。兄貴の遊んだ女に出くわすのは、勝手に奴らが家まで押しかけてきたときだけだ。こんな風に女を引きずりこもうとするなんてありえない。


「一回落ち着きましょう。腕を離してください、話をしましょう。まだ、まだ間に合いますから」


「やだよ! 絶対また逃げるじゃん! 駅三つくらい離れた地元行く気じゃん! もう一回やってるじゃん。全然俺の本気分かってないし! とりあえず籍入れようって言っても嫌がるしさあ! おっぱいつけようかって聞いてんのにしなくていいって言うじゃん! なら母さんと父さんに会ってよ!!!!!!!!」


「いや突然すぎるんですよ! そういうのは事前に」


「だって事前に言ったら早いとか言うじゃん! なんでよ! いつならいいの?」


「いやさすがに会ってまだひと月ですよ……? こういうの詳しくないですけど、はやすぎでは……」


「それまではちゃんと手紙とネットと電話で話してたじゃああああああああああああああん! もう家入ってくれないと俺ここで脱ぐよ? いいの? 露出狂の知り合いいると思われるよ? 大学の人になんて言うの? 同類だと思われるよ? 俺やるよ?? 本気だからね?? ほら、チャック開けるよ? あっベルトのほうが先か。ほら! ベルト外れるよ? ほら!」


 兄貴の言葉で、今まさに家に引きずり込もうとしているのが大学生の女だと確定した。立ち尽くしていると、女はこちらを振り返り、兄貴と目があう。


「うっわあああああああああ棗だああああああ!!」


 兄貴は絶叫すると、自分の上着の中に女を無理やりしまい込もうとした。二人羽織みたいな体勢を無理やり作りだし、女は頭だけすっぽり兄貴の上着に隠される。


「ちょ、ちょっと何してるんですかやめてください」


 じたばたと女は暴れているけど、兄貴は「俺より棗と歳近いんだから見ちゃ駄目!! それにこいつ女嫌いだから話が合っちゃう!!!! 取られる! 俺が捨てられちゃう! 絶対やだ! やだやだやだやだ!」と子供の癇癪としか思えない声で叫ぶ。女の姿が隠れているだけに、大きすぎる独り言にしか見えず、怖い。


 目の端に涙まで浮かべるこの男が、本当に俺の兄貴なのか分からない。


 顔も声も似せた宇宙人と言われても、納得ができる。


「えっと、せんぱい……」


 藤野が躊躇いがちに俺の裾を引いてはっとする。そうだ。目的を忘れていた。とりあえず兄貴を殺さないと。女を誘拐から救えるし、ヒーローになれるかもしれない。藤野に好きになってもらえるかもしれない。


「シチュエーションは違ったけど、ちゃんと兄貴殺してくる。安心して」


 俺の言葉に藤野は「先輩!? 待ってください!?」と目を大きく開いた。


「なっ、なんでお、お兄さん殺しちゃうんですか?! 西山先輩もなんかお兄さんのことゴミって言ってましたけど、えっ、ちょ、と、とにかく待ってください棗先輩」


「このままだと、藤野は間違いなく兄貴を好きになる。あいつは顔が好みなら誰にでも手出す。だから今のうちに殺さないと藤野が壊される。絶対ぼろぼろになって捨てる。藤野が世界一可愛くても通用しない。あいつはそういうことする。クズなんだ。俺の兄貴は」


「はぁ何言ってんの? 俺もう一途だから! 女遊びしねえし勝手なこと言ってくんじゃねえ! 俺のハッピーウエディングの邪魔すんなよ! そんな女どうでもいいし! ぶっ殺すぞ!」


 俺を止めようとする藤野を説得していると、兄貴が口を挟んできた。あれだけ狂ったように女を食べては捨てを繰り返してきたのだ。女遊びしないなんて信じられない。「君だけだよ」とか、「お前の前だと気抜けちゃってさあ」なんて話をしているのを、こっちはもう何百回と見てきたのだ。


 あんな腐った性根が、今更どうにかなるはずがない。死んでも治らないだろう。


 しかし、「そんな女どうでもいいし!」と言う発言に、安堵とともに怒りを感じた。何で世界で一番死んだほうがいい人間に、藤野をそんな女呼ばわりされなきゃいけないんだ。


「大嘘ついてんじゃねえ! 何がそんな女だ! こんな可愛い藤野にお前が手え出さねえわけがねえだろ! ……藤野、あいつは俺の教師、家庭教師、塾講師、サッカーのコーチ、監督の奥さんに手出して、フルハウス達成とか言うような奴なんだ。高校生の時だぞ? 顔はきれいかもしれないが、性根はゴミ、歩く公害、西山先輩以上のクズだ、絶対騙されんな。あっ、フルハウスって知ってる? ポーカーっていうゲームで……」


「だーかーらー! もう今はしねえ! 運命見つけたっつってんだろ! なんだよお前さっきから何? どっか行けよ! 彼女とよろしくやってろよ!」


「その為にお前殺さなきゃなんねえんだよだからさっさと女離せカス!」


「はあ? 絶対離さねえし! つうか一生離さねえよバーカ! 地獄に落ちても絶対手離さないからね、ねっ、一緒だよ。ずっと一緒! 約束したもんね。一緒に幸せになろうね。旦那さんにしてね」


 えへへ。と奇妙な笑い方で、兄貴は頭だけ自分の服をかぶせた女に話しかける。女は必死に兄貴から逃れているが倍の力で抱きしめられ、ばたばたもがくだけだ。このままじゃらちが明かない。何とかして女を助け兄をハンマーで……と考えていると、おびえた声で藤野が「棗先輩っ」と腕にしがみついてきた。


「待って、本当にすぐ終わらせる。兄貴殺し終わったらちゃんと家まで送るし、藤野には絶対迷惑かけないから、もう少し時間を——」


「違うんです先輩……あの……パトカーが来ちゃってて……」


 藤野がしゅんとしながら横を見る。視線を向けると近所の人たちが玄関扉を半分開き、じっと様子をうかがっている。そして、通報され出動してきたであろう警官たちが、こちらへ歩いてきているところだった。






「あの、先輩……大丈夫ですか?」


 家の近くのファミレスの店内で、メニュー表を片付けながら藤野が俺の様子をうかがってくる。


 近所の人間に「不審者が二人いる」と通報されたことで、あれから兄、兄の引きずり込もうとした女、俺と藤野の四人で警察に向かい事情を説明した。


 でも……。


「……ごめん。俺のせいで警察沙汰になって……」


 不審者というのは、俺のことだったらしい。警察署の人いわく、兄が警察にお世話になったのは初めてではないそうだ。


 絶対強制わいせつだと思ったけど、これまでも今日家に引きずり込もうとした女に対して街中で泣いて縋り付き通報され、バカの常連として署内で名をはせていた。


 それは近所の人も同じ認識だったけど、そこに新たに俺が加わってしまったせいで通報に至ったらしい。兄貴のせいで警察に連行されるはめになったと思っていたが、兄貴が署内で名の知れたバカになっていたことですぐ解放された。


「私は全然大丈夫です。むしろ先輩、顔色悪いですよ……?」


「なんか、心の整理がつかなくて」


 兄貴は女を米俵みたいに抱えて「棗見ちゃったし早く既成事実から作っていかないと!」なんて言いだし、警察署の人に怒られて渋々女を横抱きにして帰っていった。女は悟りを開いた顔をしていたから、兄貴の奇行は始めてではないみたいだった。


 あれだけ酷かった女癖の悪さは、治ったのだろうか。


「……俺の兄貴見て、どう思った?」


「え……、あっ、最初はその、誘拐してるなと思いましたけど……なんだか、初めて見る感じの方でびっくりしちゃいました」


「……好きになった?」


「? 私が好きなのは先輩ですよ?」


 当然のように言われ、俺はテーブルの下で自分の太ももを指で刺した。この言葉がずっと聞きたかったはずなのに、いっそ今ここで殺してほしい気持ちに駆られた。もうここで終わりにしてくれ。俺はこの思い出で一生を終えたい。


「せんぱい」 


 小さく呼ばれ顔を上げる。藤野はマフラーを外してしまっていた。


 きれいに畳まれ、鞄の上にのっている。屋内にいる間、なんとなく不安だ。腕時計でもつけてもらうかと時計の金具を外すと、藤野が上目遣いでこちらを見てきた。


「あの、先輩さっき、私のこと世界で一番可愛いって、言ってくれましたよね」


 その言葉に、外していた腕時計が手から滑り落ちた。鈍い音がして拾い上げると、硝子面にひびが入っている。藤野は顔を赤くし、もじもじとしていてこちらの様子には気づいていない。


 よかった。時計つけるか聞く前で。ひび入ったのなんか身に着けさせたくないし。


 ……今は時計とかどうでもいい。藤野を世界で一番可愛いと思ってることを、よりによって本人に知られた。兄貴を殺して伝えることだったのに。というか、兄貴が女を振るときみたいに「落とすゲームしてたから!」とか言われたらどうしよう……違う。藤野はそんなことしない。


「……言ったけど」


「やったー! 嬉しいです! もしかして私、先輩のタイプじゃないのかなって思ってたんですけど、良かったぁ〜。これからもっともっと先輩に好きになってもらえるよう頑張りますね」


 俺が死ぬからやめろ。


 右手で左手をボコボコに殴っていると、店員が注文していた飲み物を運んできた。「ピーチフロート二つになります」と俺と藤野の前にピンクのグラスを並べる。しくじった。注文の時「俺も同じのでお願いします」なんて言わなきゃよかった。これじゃあ本物のカレカノみたいだ。


 本物。本物……本物の……。


「……別に、頑張らなくても、もうお試しとかなしに彼女でいいから」


 ぼそっと呟くと、藤野は目を瞬かせた。そして「わーい! これからもよろしくお願いします!」と喜んで見せる。嬉しいんだろうけど、この間キョーカ、西山と三人で出かけたと思い出話を語っていた時のほうが嬉しそうでもやもやした。


「……こちらこそ、よろしく」

「はい! ……あっ」


 兄貴を殺せなかった分一世一代の気持ちで言ったけど、藤野は俺が手に持っていた時計を見て目を見開いた。


「先輩、手怪我しちゃいますよ! 時計割れてますよ!」


「そうだな」


 藤野は慌てた様子だ。最近は意識してみないようにしていたからか、新鮮な気持ちだ。もういいや、わざわざ兄貴殺さなくても。兄貴殺した後、藤野がそのまま一生兄貴のこと引きずるの嫌だし。


 結局俺の殺意は、藤野を取られたくないだけだったのかもしれない。だって今は、こんなにも穏やかに藤野を見ることができる。


 藤野可愛いし。本当にかわいい。もう、兄貴殺すのやめよう。少なからず改心したみたいだし。これから先だってこんなにも可愛いのだから、藤野を狙うやつは兄貴だけじゃなく沢山出てくるはずだ。藤野の心を奪う奴も出てくるかもしれない。そんな相手を殺していてはきりがない。もしその時が来たら——、


「俺だけ死のう」


「先輩? ごめんなさいもう一回言ってもらってもいいですか?」


「藤野が可愛いって言った」


「へへへ、ありがとうございます」


 世界で一番可愛い俺の彼女が、甘くはにかんだ。零れそうなその瞳を見つめ返して、俺は今までにないくらい自然に笑ったのだった。


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