たまゆらの夢

月花

第1話 たまゆらの夢

深緑の水面は、初夏の風に、淡く波打ちながら、池のほとりに立ち並ぶ木々を映している。

仕事が軌道に乗り、目まぐるしい忙しさで、しばらく、この公園には来ていなかった。

平日の昼間だが、その割には人が多く、大学生と思われるカップルや、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い母親達が、池の周りをゆっくりと散歩している。

駅前の喧騒を少しだけ抜けたところに、この公園はある。散策を誘うように緑の木立が立ち並び、公園中央には、鯉や水鳥の遊ぶ広い池がある。途中には、自然文化園への入り口があり、池に添うように、鳥達が憩うエリアを眺め、公園を抜けて道路を渡ると、様々な動物達のいる本園へと続いている。

俺も学生の頃は、池のボートに乗ったり、ふらりと散歩したり、春ともなれば満開の桜を見に来たものだ。

だが、この数年は、そんな休息も出来ないくらいに、忙しかった。

俺は都内の大学を卒業後、実家の家業は継がず、大学で出会った仲間数人で、起業した。俺達は『経営研究会』という、むさ苦しい男ばかりのサークルに所属していた。

俺達は、互いに感じていた。こいつらは既存の枠にはまらない連中だろうと。

学生時代、俺達は集まっては、酒を飲みながら、起業の話をした。同じ夢を見る仲間とは、どんなに語り合っても飽きることがない。

もしかしたら、あの頃が、俺達が一番幸せな時だったのかもしれない……。


会社の立ち上げから1年ほどは苦労の連続だった。それでも2年目には、俺達のベンチャー企業は、年期の入った企業にも劣らない業績を上げるようになった。

若い俺達は、SNSをフル活用して、思いきり商品を売り込んだ。最初は小さな雑居ビルの一室を借りていただけの事務所は、大企業も借り入れる都心のビルに移動するまでになった。

口コミで商品の評判が広がり、メディアにも幾度か取り上げられ、まさに破竹の勢いで、俺達の会社は急成長した。

今までろくに女性と付き合ったこともない俺だったが、モデルばりの美人の彼女が出来た。

まさに怖い物など何もなかった。

俺達は絵に書いたような成功という名の高みにいた。

しかし、栄光は永遠に続きはしない。

会社が拡大し、複数の下請けに業務を委託するようになったのだが、そこの一社が、品質不良を起こした。

商品の謳い文句にしている表示とは異なる素材で商品を作っていたことが発覚したのだ。

SNS の展開でのしあがってきた俺達の会社は、皮肉にも、そのSNS で瞬く間に品質不良問題を拡散され、業績は崖を転げ落ちるように、大暴落した。

毎日鳴り止まないクレームの電話に、SNS に書き込まれる最低の評価……。

みんな不眠になり、ストレスから、互いに責任を擦り付け、罵倒しあった。

毎日夢を語り合った、あの輝きは、あっけなく砕け散った。

俺達の元に残ったのは、莫大な借金のみ。

そして、自慢だった美人の彼女は、全てのSNS をブロックし、俺の元を去っていった。


「……はは」

池の側の柵に、両腕をもたれさせながら、小さく笑う。水面から少しだけ飛び出た、池に泳ぐ黒い鯉の背鰭が見えた。初夏とはいえ、温暖化で、気温は30度以上ある。

池の水は、少しは冷たいんだろうか。そんなことを思い、腕に頭を乗せ、視線をずらすと、そこには、この公園にある弁財天のお堂が見えた。

鮮やかな朱色の建物は、夏の緑の中に、よく映える。そういえば、この弁天社にもしばらくお参りに行っていないな。そんなことをふと思った時、くらっと眩暈のような感覚を覚える。

暑さのせいか?そう思った瞬間、俺の体は前のめりに倒れていき、腕をついていた柵を飛び越えた……。


ザバ…………ッン!


そして、水の中へと吸い込まれるように落ちていった。


どれほどの時間が経っただろうか。

先程までの汗が首筋を伝うような暑さはなく、心地よい微風が肌を滑っていくのを感じる。体の下にあるのは柔らかな草の感触。側からは水のせせらぎが聞こえる。

池の中に落ちてしまったのかと思ったが、そうじゃない。俺は池のほとりで、うたた寝をしてしまっただけなのだ。

ゆっくりと顔を上げると、俺は体育座りのような格好でうずくまっていたことに気づく。

そして、立ち上がった俺は驚いた。

「どこだ……ここ?」

あの公園に、どことなく似ているが、目に映るのは、さらに広大な自然。

池というよりも湖に近い水面が、見渡す限り広がり、天空に浮かぶ白い太陽が柔らかな日差しで地上を照らしている。

湖の水面には、透き通るような桃色の蓮の花が咲き乱れ、揺れていた。花の合間を朱色の鯉が小さく飛び跳ね、波紋を描く。

「……夢か」

そう納得しかけた時。

聞いたこともないような音色が耳を揺さぶった。

……何だろう?弦楽器?

音の鳴る方へ振り返った俺は、言葉を失う。

そこには、鮮やかな着物を纏った黒髪の女性が立っていた。

朱色、萌黄色、桃色など、何層にも重なった着物に、頭頂を少しだけ結わえた艶やかな黒髪は、地面にまで波打っている。

こちらを伺うように傾けた顔は、抜けるように白く、澄んだ瞳は、どこまでも見通すような不思議な光を湛えていた。何かの絵巻から、そのまま抜け出てきたかのような美女だ。

呆気にとられて、無言で見つめる俺には構わず、黒髪の美女は、手にしている楽器を爪弾く。

これは琵琶だ。異国を思わせる不思議な音色が、青い空と、水と、花と緑だけの世界に響き渡る。

暫し心地良い旋律が流れた後、美女は言った。

「可愛い客人まれびとさん。あなたは、どうして、この世界に来たのかしら?」

問われても答えようのない問いかけをされる。

どうしてなのか。昼下がりの眠りについて、見ている夢なのかと思ったが、あるいは、やはり池に身を投げて、極楽にでもやって来たのか。

「……分かりません。ただ、全てを失いました」

そうだ。ここが、夢でも極楽でも。現実世界の俺は、全てを失ったのだ。

「そうですか。それで、ここに流れ着いたのですね」

流れ着く……不思議な表現だ。

「こちらに」

美女はそういうと、優雅に歩き出す。

湖と繋がる川の側まで行くと、彼女は立ち止まった。涼しげな清流には、朱色や白、黄金色の鯉達の泳ぐ姿が透けている。

「御覧なさい」

鈴のような声が続く。美女が指し示す方に視線を向けると、川の中に大きな岩があった。

岩に遮られた川の水が、飛沫をあげている。

「自然な川の流れを塞き止めようとすると、あのように反発し、摩擦が生まれます。しかし……」 

美女がそこまで言うと、何と触れてもいない岩が音もなく動いていき、岸辺へと上がった。すると、何も遮る物の無くなった川は、飛沫をあげることなく、滑らかに流れていく。

「川の水のように、流れに身を委ねなさい。そうすれば、必ずや成功するでしょう」

美女は俺を見つめながら、花開くように優しく微笑む。 

すると、またあの眩暈を感じて、俺の体は前のめりに、ゆっくりと倒れていった。


再び、意識が戻ると、俺は公園の池のほとりにいた。

しばらく白昼夢の余韻が消えず、ぼんやりしていると。

「桜井君」

聞き覚えのある声が聞こえてきた。見ると、ここ何年か会っていなかった幼馴染みの真梨まりが立っている。彼女の手には、俺の実家であり、代々続く和菓子屋「清流堂」の紙袋が握られていた。

「久しぶりに桜井君に会いたいなと思って、お店に行ったんだけど。桜井君いなかったから、和菓子だけ買ってきたところ」

ここのは美味しいからね、と笑いながら真梨は言った。

「良かったら、一緒に食べない?」

親父の手作り菓子を公園で食べるのも、妙な感じがしたが、今まで古臭いと、見向きもしなかったこの和菓子をふと食べたくなった。

包みを開けると、夏をモチーフにした涼しげな生菓子が並んでいる。朝顔、すいか、笹の葉、魚の泳ぐ清流。淡い色合いで、繊細な作りの和菓子は、目に楽しく、口に含めば、優しい甘さが広がった……。

小一時間ほど話をした後、駅前で真梨と別れ、俺はそのまま実家に向かう。清流堂は、駅前の賑やかな商店街の外れにある。小さな店と住居は一緒になっていて、調理場のある裏口から、中に入った。

そこには変わらず、黙々と菓子作りをする親父の姿があった。

「ただいま」

俺が言うと、親父は作業の手を止めることなく、ちらりと、こちらを見る。

「何だ」

そこには、自分勝手に家を出ていった俺に対する想いが込められていた。

だが、次の俺の一言で、親父は驚いた表情を浮かべる。

「和菓子の作り方、教えてくれないか」

「……」

和菓子を練っていた親父の手が、止まった。

何かを思案する表情を巡らせた後、いつもの頑固な顔で、ぶっきらぼうに言う。 

「……横で黙って見てろ」

俺は厨房に入ると、親父の節くれだった指先が作り上げる伝統を静かに見つめた。



あれから、2年。目まぐるしい忙しさで、しばらく、この公園には来ていなかった。

あの後どうなったかというと……。

結局、俺には和菓子作りの才能はなかった。

でも。

「ねぇ、新作の和菓子どう思う?」

大きくなったお腹に手を当てながら、横を歩く真梨が聞いてきた。

俺にはない才能を持っていた真梨が、清流堂の和菓子作りを引き継いだのだ。

「すごくいいと思うよ」

俺は、真梨とお腹の子供に微笑む。

真梨が新たに作りあげた和菓子は。

中央の澄みきった水を包み込むように、青々と生い茂る葉が縁取る「武蔵野」と名付けた上生菓子。

そして、真梨が和菓子作りの才能を開花させた一方で、俺は一度起業した経験を生かして、新たにネットでの営業販売を展開。近年わずかな顧客しかいなかった清流堂の和菓子を全国に広めたのだった。

「お参りしようよ」

池の周りを散歩して、あの弁天社にたどり着く。

「ああ」

俺は真梨と手を繋いだまま、朱色のお堂へと続く太鼓橋を渡る。

ふと、傍らに立つ青々と生い茂る木を見ると。

小さな蛇が、高い空を目指すように、ゆっくりと上っていた……。

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たまゆらの夢 月花 @tsukihana1209

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