Chapter 4『桃、24年ぶりにドヤで働きはじめる』4-2

「なんちゅうこと言うねんなこのは!」

 お母ちゃんがめずらしく怒鳴った。

「お父ちゃんの――桃ちゃん、あんたのお父ちゃんの形見やないの! 意味ないことなんかあらへん! これはお守りや。お父ちゃんが、この腕時計があんたを見守ってくれはる! せやからちゃんと着けていき!」


 えらい剣幕にわたしは屈するしかなかった。


 腕時計なんてスマホを買ってもらってから以来だ。

 落とさないように手首に巻きつける。


「エタノールを染み込ませたタオルで拭き取って、天日干しまでしたんやで」

とお母ちゃんは言うけど、それでもじっとりとした感触がして不快だし、よくよく見ると黴のようなものが残っていて痒くなりそう……なによりクセのついたそれは妙にフィットして、コワいくらいだった。


(とにかくこの場はガマンしてすぐに外せばいい――)


と考えたわたしに、

「『天晴』への行き帰りは絶対に外さへんこと。桃ちゃん、エエなっ!」


 場所は西成釜ヶ崎。なんだかんだいってもお母ちゃんも多少の不安はあるに違いない。まあいいや。それでお母ちゃんの気が済むのならこれくらいは辛抱しよう。わたしといえば、ここまでくれば腹を括ったというより逃げ場がないという感じで、じつにサバサバした気分だった。


 父のポンコツ腕時計を着けたわたしに、お母ちゃんが言った。

「なんや、けっこう似合ってるやないの」

「ウソばっか」

 アハハっ、とお母ちゃん。

「忘れ物ないん? お財布、ハンカチ、メモ帳とボールペン、あとは……そうそう正露丸は持ったか?」


 肥ってるわりに胃腸が弱いわたしにとって正露丸は必須アイテム。頭陀袋みたいな斜めがけバッグを開けて見せると、安心したようにお母ちゃんが「よっしゃ」と頷いた。


「いってらっしゃい」

 お母ちゃんの目は、少し潤んでいた。

「いってきます」


 わたしは、じぶん自身に確認させるようにもう一度、

「いってきます」

と勢いよく玄関を出た。


 朝7時台の環状線に乗ったのは24年ぶりだ。

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ドヤカミ――わたし、ドヤの女将さんになるかも……―― 梅崎遊熊 @yorozuyao

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