Chapter 3『桃、生まれてはじめてお見合いする』3-8

「桃ちゃん、ほなお暇しましょ」

 わたしとお母ちゃんは、ビジネスホテル天晴を後にした。

 そして、あらためて、


(明日からこのソンチョー親子の営むドヤで働く……)


 働く……

 働く………… 


 働くなんて何年ぶり、いや何十年ぶりだろう…… 


 そう思うと何ともいえない緊張と不安が一気に募り、それが猛烈な恐怖感となって、わたしは呼吸が苦しくなってくるのを感じていた。


(あかん……やっぱりアカン……わたしには無理――)


 まるで体じゅうの血管が塞がったみたい……


 胸もとに手を当てて立ちすくんだわたしに、

「桃ちゃん、どないしたん? 気分でも悪いん?」

 お母ちゃんが心配げに訊いた。わたしは、

「大丈夫、慣れへんことでちょっと疲れただけやから」

とこたえて『ビジネスホテル天晴』を振り返った。視線を、とても好意的な視線を感じたから。


 意外だった。


 てっきり若ソンチョーかと思ったら、なんとタマだった。


 招き猫然としたタマが、わたしを見送ってくれていたのだ。

 そして、一瞬だった。


 左足で手招きするような仕草を立てつづけに2回――


「タマ」


 思わずわたしは呟いた。お母ちゃんに、

「いまの見た? お母ちゃんも見たよね?!」

と訊いが見てないという。すでにタマの姿はなかったが、それでもお母ちゃんはテンション高く、

「たしか左足はひとを招くやったなぁ。よかったやないの桃ちゃん!」

と上機嫌。


 わたしの恐怖感も完全に消えたわけではなかったけれど、巨大台風から一気に温帯低気圧並に和らいだ。

 五十路目前の花嫁修業とはいえ、仕事には違いない。

 わたしは興奮していた。足取りもウソみたいに軽くなった。JR新今宮駅まであっという間だった。


 ――明日から働く! わたしは働くのだ!!


 夕暮れのプラットホームから目前にひろがる広大な空き地(近い将来Hリゾートが都市型ホテルを建てるのだという)をながめながら、わたしは心のなかで呟いた。

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