Chapter 2『桃、生まれてはじめて釜ヶ崎を訪れる』2-5
そんなだから初対面ではとてつもなく緊張してしまう。ましてや、もしかしたら、万に一つ、ほんとうに結婚するかもしれない相手となれば尚更だ。
にもかかわらず不思議とこの男のひとにはそういうこともなかった。事前に写真や人となりを知らされているのも大いにあるけれど、わたしのオンナとしての勘が“このひとなら間違いない”と、こころのガードをゆるゆるにさせた。
帳場は奥行きの深い、俗にいう鰻の寝床みたいな造りで、突き当りには台所、その手前には6畳ほどの部屋があり簡易ベッドや卓袱台などが置かれていた。食事休憩や夜勤の際の仮眠スペースとして利用しているそうだが、ずいぶんと掃除が行き届いている。
(わたしの部屋よりぜんぜんきれいやん!)
プチごみ屋敷化している自分の部屋とくらべて、わたしは素直にそう思った。
「ホンマにいつ来てもキレイにしてはるねぇ」
というお母ちゃんに若ソンチョ―が、
「取引先の銀行さんとか消耗品の出入り業者さんとかも来たりするもんですから」
と、照れ気味に少しばかり白髪の雑じった頭頂部を掻きながらスリッパ同様上質な座布団を用意してくれた。
「父はすぐに戻りますから」
「お出掛け?」
「近所の百円ショップまで――ホントすぐ戻りますから」
「じゃあお茶淹れてきましょうか。エエんよ、純平さんは帳場みてて」
「すみません、じゃあお願いします」
若ソンチョ―は帳場へと、お母ちゃんは台所へと。
わたしは独りで居ることは平気だけど、それが未知の場所や状況だとすこぶる苦手だ。ふかふか過ぎる座布団も心地悪くて酔ってしまいそう。
(お母ちゃん……)
すぐにお母ちゃんのいる台所へ行こうと立ち上がろうとした時、老眼鏡を掛けた若ソンチョ―が伝票らしきものを繰りながら、ソロバンをはじいているのが見えた。ここからでも帳場がよく見えるのだ。
仕事をしている男のひとはいつだってカッコいい。
長い間働いていないわたしは、とくにそう思う。
若ソンチョ―の横顔はさらにカッコよく映った。
かなり熟れているようで、玉を入れる音が和楽器を奏でているようでとても心地いい。わたしは座布団をはずして座り直して、耳を澄ませた。
「これはこれは、どうもどうも、はじめまして」
しばらくして音が止み、ややあって見るからに小柄な白髪の好々爺が入ってきた。
若ソンチョ―と瓜二つの大きな鼻をしていたので、父親だとすぐにわかった。
ほんとうにどこかの村の村長さんみたいな風貌だった。老眼鏡のグラスコードが桃色で、ちょっと可愛かった。
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