Chapter 2『桃、生まれてはじめて釜ヶ崎を訪れる』2-4

「タマ」

 わたしは声を掛けてみた。タマは一呼吸をおいてから、にゃあ、と鳴いて大きなあくびをした。起きたてのオッサンみたいだ。


 自動ドアが開くと『ビジネスホテル天晴』とプリントされた茶褐色のスリッパが数足並んでおり、すぐ脇にローカル線駅舎の切符売り場を思わせるような、こじんまりしたフロントがあって、隅の方に2リットル入りのミネラルウォーターのペットボトルやカップヌードル、きつねどん兵衛、焼きそばUFOがきちんと3列に並べてあった。

 あとで知ったことだけど、一般的なホテルとは違って、この周辺のドヤのフロントでは従業員が座っているのはデフォ(アラフィフだってデフォなんてネット用語くらいデフォなのだ)で、またフロントより“帳場”と呼ぶことが多いとのことなので、わたしもそう呼ぶことにする。


「こんにちは」

 とても落ち着いた声だ。

 写真どおりだったので、若ソンチョ―だとすぐに――いや、写真よりずっとスリムになっていて、全体的にシュッとしている。ジョン・レノンが掛けていたような丸メガネも似合っていて、わたしなんかよりずっと若く見えた。

 中年男のイイ感じの渋みが、大きめの鼻を魅力的にさえ見せていて、

(あの見合い写真はハードルを下げるためにわざとイマイチなのを使ったのかもしれない……)

とわたしは思った。


 お母ちゃんがこれだけ積極的なのは彼に会えるからではないのかと、ふと勘繰ってしまったけれど「認知症予防に恋ごころは有効」とエライお医者も医療バラエティー番組で豪語していたくらいだから良しとしよう。


 腰かけていた若ソンチョ―はすぐさま立ち上がり『ここはトイレではありません』と貼られた幅狭(ポッチャリ体型のわたしがギリギリ通れるくらいしかない)の引き戸を開けて、一目で上質とわかる来客用スリッパを用意しながら、

「むさくるしいところですが、さあどうぞどうぞ」

とお母ちゃんとわたしを招き入れた。すぐさまお母ちゃんが、

「娘の桃です。なんも行き届きません娘ですがよろしゅうお願いいたします」

とふかぶかと頭をさげたので、わたしもそれに倣った。


「村長純平です。本日はようこそおいでくださいました」

 そう言うと若ソンチョーは、とても丁寧なお辞儀をした。誠実さがにじみ出ていた。


 わたしは、子どものころから対人関係で失敗ばかりを繰り返してきた。

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