Chapter 1『桃、再スタートする』 1-2

「いまさら結婚なんて。無理ムリ、絶対に無理!」

「桃ちゃん……」

 お母ちゃんはこの世の果てでも眺めるような表情を見せたが、

「次期社長の資産家なんよ」

と、もったいつけるように言った。


 わたしも下衆だ。思わず、

「資産家なん?」

と訊いてしまっていた。せやせや、とお母ちゃんは深くうなずき、

「歳は桃ちゃん、あんたより三つ上で初婚や。呑む打つ買うも一切せえへん。借金もあらへんし。わざわざ見せてくれはった不動産の登記簿は真っ白。一つも根抵当権ついてなかったわ。もったいないくらい正真正銘の優良物件なんよ!」

「優良? 52で初婚って相当なワケアリ物件やと思うけど」

と、49で生涯未婚であろうわたしは、アルフォートに手を伸ばした。それにしてもこのチョコレートクッキーだけはやめられない。ブルボンのファミリーサイズは安くてどれもボリュームがあって、なかでもわたしはこのお菓子が大のお気に入り。我が家の収入はお母ちゃんの年金のみで、そんな倹しい暮らしであっても、

「いつものアレ、買ってきてもええ?」

「また肥るで。ホンマしゃあない娘やなぁ」

 渋々ながらこくりとうなずくお母ちゃんの目はいつも笑っていて、菓子器にアルフォートがなかったことはいまだかつて一度もない。母親というものは、ほんとうにいいもんだ、とつくづく思う。


「にんげん50年もやってたら大なり小なりみんなワケアリ物件や」

 お母ちゃんの淹れてくれたほうじ茶を呑みながら、わたしは黙ったままうなずいた。お母ちゃんはつづけて、

「とにかく一度会ってみぃよ。お見合いなんて堅苦しいもんやのぅて、ちょっと軽くお茶する感じでええんやから」

「資産家、って何やってはるひとなん?」

「ドヤ」

「どや?」

「ほかにもそんな大きないけど月極の駐車場なんかもやってはるわ。この彼で三代目やから、まぁそれなりに歴史もあるわなぁ」

 駐車場はわかるけど、ドヤってなんなん? 

 ドヤ顔くらいしか思い浮かばないわたしに、そんなことも知らんのかいなとお母ちゃんが、

「西成の釜ヶ崎とか東京の山谷なんかの日雇い労働者向けの簡易宿泊所をそう呼ぶのんや」

と言った。わたしが、

「たぶんヤドを逆さまにしたんやね。でも、なんでやろ?」

というと、

「知らんがな」

 お母ちゃんはアルフォートを一枚つまんだ。   

 ドヤ街のドヤかぁ。


 そういえば以前、深夜のドキュメンタリー番組でちょこっと観たことがあった。

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