世のため人のため

 これ以上続けていたら発狂してしまう!


 文字通りの死ぬほど憂鬱な月曜日を乗り越えた火曜日の朝、私はついに思い立った。

 私は今年で34歳になる。都心の役所に勤めて10年以上が経っていた。

 そこそこの大学を出て採用試験を突破し、晴れて公務員となったわけだが、公務員の現実は決して甘くはなかった。

 世間のあおりを受け、経費削減と称し人員を減らしてきた結果、どこの部署も残業が溢れ、職員は常に疲弊していた。

 それでいて、一部のできない職員はどこの部署に行っても大して仕事もせずに暇を持て余し、毎日のように定時退庁だ。

 一方で、「真面目」な職員は常にキャパオーバーなレベルの仕事を抱え、朝は早く出勤し、夜はいつも遅い。

 有給の取得はおろか、定時退庁すらまともにしたことがない。

 土日の出勤も珍しくはなく、たとえ出勤しなくても洗濯などの溜まった家事をするのが精一杯で、あとのほとんどの時間は不足していた睡眠を補うだけだ。

 まさに仕事をするために生きる者の生活である。給料ももちろん低い。10年以上働いてようやく月の手取りが30万を少し上回る程度だ。

 それに残業代がついてようやく、東京都内で暮らしていくまともな額となる。手取りで言うと20万後半で、羨ましがる人もいるだろう。だが私は高い給料がほしくて公務員になったわけではない。高い給料がほしいなら銀行員を目指すべきだ。それに残業代がすべてつくわけではない。

 結局のところ、まったくと言ってもいいほど割に合わないのだ。


 そんな生活だから、友人とも疎遠になってしまった。

 結婚はしていない。結婚をしたところでこの生活が変わるわけではないのだ。なんの希望もない。

 こんな生活がしたくて、学生時代に一生懸命勉強をしてきたわけではない。

 高校受験のためにと、中学からは塾に通い何冊も問題集を解いた。

 高校に上がれば大学受験のためにと、小難しい問題に取り組んだり、結局何の役にも立たなかった細やかな知識を暗記した。

 大学に上がれば就職のためにと、公務員試験の予備校に通い、これまた何の役にも立たない知識を詰め込んだ。

 そして今は老後のためにとあくせく働いている。


 だがこれまで後先を考えて頑張ってきた結果がこれだ。

 公務員を辞めたところでどうするのか?

 あてがあるのか?

 そんなものは知らない。

 ここまで真面目に頑張ってきたのだから、もう後先を考えずに行動をしたっていいじゃないか。

 元来、私は人のために何かをしたいと思ったこともない。「すべてはあなたの将来のため」という言葉を信じ込み、愚かにも自分のためにやってきたのだ。しかし、正直者が馬鹿を見る世の中だということを痛いほど実感できた。


 さて、今の私は心を決めたのだから、何でもできる。怖いものはない。私は自由だ。

 ひとまず辞めることを伝えにいく必要があるので、いつもと同じ時間に家を出ることにした。

 いや、本当は電話を一本入れ、退職届を書留で送り付けて一方的に辞めてしまえば良いのだが、なぜだか心も体も軽いので外に出たい気分なのだ。

 私はいつものようにスーツに袖を通す。だが今日はネクタイはつけない。

 家をスキップするように軽やかに飛び出した。途中で鍵を閉めたかどうかを忘れたがそんな些末なことは気にしなくてよろしい。


 なんだか今日はやけに空がきれいに見える。駅に着いてホームで電車を待っている時間だけが、以前の私にとっての唯一のぼうっとできる時間だった。

 だけど今日はすべてをにこやかに見渡すことができる。暗く渋い顔をした周りのサラリーマンたちにもこの笑顔をわけてあげたいくらいだ。

 そうこうしていると、電車が到着した。すでにおびただしいほどの人がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

 そこに乗っている人たちもみな一様に出荷されるかわいい子牛のようだ。

 さながら社畜という物資を詰め込んだ貨物列車、いわば現代の奴隷船である。

 いつもであれば私もまた渋い顔をして乗り込むのであるが、今日ばかりは踊るように乗り込んだ。ドアの前でくるりと一回転したような気もする。

 なんだかふわふわしたきもちだったので、気が付いたら駅に着いていたんだと思う。流されて出ていくように電車を降りた私は、やはりスキップをしながら職場に向かった。


 精いっぱいの抵抗で、いつも始業ギリギリに着くようにしていたが、今日はなぜか遅刻してしまった。まあそんなことは関係ない。もう終わりなのだから。

遅刻してあいさつもせず、懐……いやかばんだったからか取り出した辞表を、両手で持って手を頭より高くしながら上司に渡した。

 そのときの上司の顔と言ったら傑作だった。大きな恨みがあるわけではないが、あんなに慌てふためいた姿を見るのは初めてだった。

 なぜみんなそんなに真面目なのだろう。私のようになればとても楽なのに。

 上司だけでなく、周りの同僚も思わず席を立ちあがって私を取り囲んでなにやら電話したりあれこれを話し合っていたが、当の私には何も頭に入ってこない。

 ただ、しあわせなきもちと、すべてがどうでもよくなる感覚だけを覚えている。


 そうして私は、大麻所持の疑いで逮捕されたのだった。



 と、筆を擱き、この物語は終わるわけだが、私の日常はこれからも続いていく。

 すこしは気が晴れたかもしれない。だが、やっぱり明日はやってくる。

 現実は間違いなくやってくるのだ。

 なんで真面目に生きてきた私がこんな目に遭わなければならないのだ。神というものが本当にあるとすればたいしたサディストだ。

 どうにかして一矢報いたいものだが、凡俗の徒の私には何もできっこない。そもそも神と戦う気力などない。日常を生きるので精一杯だ。

 つらい、つらい、つらい。


 これ以上続けていたら……

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