第99話 たゆたゆするの

 よもぎはもやの中を真っ逆さまに落下していく。その速度は落ちることなく勢いはいよいよ増し、同時にますます強まる風圧はよもぎの顔にあたるとすぐに水滴となってその頬を濡らした。


「冷た――い! なんですかこれ、罰ゲームですか、お洋服がびしょ濡れです。そもそも罰ゲームは九尾のはずなのに――」


 よもぎは風圧にあらがいながらも九尾きゅうびに向かって声を上げて叫んだ。


「なんとか……なんとかしなさいよ、九尾――!」


 慌てるよもぎを横目に九尾はあきれたように小さなため息をひとつ、そしてその身体からだを器用にひねってよもぎのすぐ横に寄り添った。


「よもぎよ、まずは体勢を整えるのじゃ。わらわを見てみい、こうして背中を下にするのじゃ。まずはここからじゃ。さあ、やってみるがよい」


 よもぎは九尾と同じ向きになるように身体からだをよじる。


「次、次は?」

「ならば次はイメージじゃ。そうじゃなぁ、水に浮かびてたゆたう姿でも思い浮かべてみるのじゃ」

「たゆ……わかった、とにかく、すればいいのね」


 よもぎは目を閉じて明るく静かな水面に浮かび、その身をくねらせながらのんびりと漂う自分の姿を想像してみた。


「あ、なんかよくわからないけど、ちょっと変わったような……」

「うむ、まあよかろうて。その感覚を忘れずに今度は半身はんみを起こしてみるのじゃ。ほれ、わらわを見るのじゃ。こんな感じじゃ」


 よもぎは九尾が言うようにゆっくりと、しかし力は抜いたままで上半身を起こしてみた。するとうまい具合に尻が下がってよもぎの身体からだは空中でくの字になった。続いて足も腕も脱力させて落下する重力に身を任せてみたが、しかしよもぎの目に映る視界の端には上空に向かって流れるもやのまだらがその速度を落とすことなく流れていくばかりだった。


九尾きゅうびぃ――、ぜんぜん止まってくれないんですけど、これ」

「しかたないやつじゃのう。ほれ、れの手をこちらに伸ばすのじゃ」


 そう言いながら九尾はよもぎに片手を差し伸べる。よもぎは風圧に押されながらもなんとか片腕を傾けて九尾の腕を掴むとしっかりとその手を握った。よもぎの手の感触を得た九尾もしっかりとそれを握り返した。


「よいか、よもぎ。すべてはれの気持ちひとつじゃ。すなわち集中力じゃ。気持ちを落ち着けて空気の密度の違いを感じるのじゃ。さればどこかにあるはずじゃ、れの身を委ねやすい流れが」


 よもぎは大きく深呼吸をすると意識を背中に集中してそこに当たる気流の微妙な感触を感じ取ろうと試みた。なるほど確かに九尾が言う通りだ、密度が異なる空気の層が次々と現れては上空に抜けていくのがわかった。


「あっ、言われてみれば……ミルフィーユの中を抜けていく、みたいな」


 よもぎは定期的に軽い抵抗を感じる層が巡ってくるのを感じていた。そしてその層を感じるたびにそこで落下速度が緩むことにも気がついた。やがてよもぎの身体からだは気流の緩急を受けながらときには速く、ときにはゆっくりと速度を交互に変え始めた。


 今、よもぎの脳裏にはひらりひらりと春のそよ風に舞う蝶の姿が浮かんでいた。それは九尾がつないだ手を通してよもぎに伝えているイメージだった。よもぎは瞼に映る蝶に自分の姿を投影した。


「よもぎ、そろそろこの層の終点じゃ。さすればそこはもう俗世じゃ。これまでとはも変わる。今のイメージを忘れるでない。自分の風を見つけて大気の中を自在に舞うのじゃ」


 よもぎの身体からだを通り過ぎる重く湿ったもやの渦、その密度が徐々に荒くなる。同時によもぎはこれまでにはなかった新しい空気がそこに混じるのを感じた。


「あっ、ちょっと空気が変わったかも」

「ならば今が潮時じゃな。ここからはわらわれに助け舟を出してやるのじゃ」


 その言葉を残して九尾きゅうびの姿はよもぎの胸に下がる勾玉まがたまの中に消えた。同時に勾玉はほのかな金色の光を帯びた。

 よもぎの中に九尾の声が響く。


「今、わらわれとともにある。よもぎ、心の準備はよいか、そろそろここを抜けるぞ。イメージじゃ、イメージするのじゃ」


 よもぎは気流に身を任せて漂いながら空を舞う自分の姿を思い浮かべる。目の前を過ぎるもやの渦は徐々に薄くなり、やがてそれは終わりを告げ、よもぎの目の前にはもわりもわりと波打つ雲の底が広がった。

 その雲の底が猛スピードで遠ざかるとともによもぎの周囲にまとわりついていた重く湿った空気もすっかり消えて、軽やかでさわやかな風がよもぎを包み込む。そしてよもぎの身体からだをじっとりと濡らしていた不愉快な残滓ざんしは、新しい新鮮な空気に取って代わられていつの間にかすっかり消えていた。

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