第95話 反芻
「お嬢さん、さっきはちょいと怖い思いをさせてしまったかも知れないが、そう固くならずに、まあ肩の力を抜いて楽にしてくれ」
管理人は手にしていた
「さて、お嬢さん、何を飲むかね?」
よもぎはついさっき自分の忌まわしい記憶を回想した、居心地のよい試練場とも言うべきこの部屋のソファーに身を沈めていた。しかしこれから起きるであろう、まるで死刑宣告を思わせる自分の
そんなよもぎの全身からうかがい知れる緊張感を察してか、管理人はその気持ちを少しでも和らげようと軽口をたたいて見せる。
「こういうときは甘口で強めのカクテルがおススメなんだが、さすがにお嬢さんに酒ってわけにもいかないしなぁ……」
するとよもぎは右手にあるガラスキャビネットを恐る恐る指さしながら答えた。
「よもぎ、あの象さんの紅茶を飲んでみたいです」
「ほ――、お嬢さん、なかなかお目が高いな、いい選択だ。このブランドはなかなかに入手が大変でな、中でもアールグレイが絶品なんだ」
管理人はにこやかに頷くとキャビネットから象を
程なくして部屋の中に甘い紅茶の香りが漂い始めるとそこにアールグレイ特有の芳醇な香りが混じる。管理人は大き目のティーポットと二客のカップを載せた銀のトレイをソファーの前のテーブルに置くとひとつのカップに紅茶を注ぎ、それをよもぎの前に置いた。そして管理人はもうひとつのカップに自分の分を注ぐと、それを片手にカウンターに戻って腰高のスツールに腰かけた。
「それではお嬢さん、あんたの
管理人は飲みかけのカップをカウンターに置いてよもぎの前に立った。長身から見下ろされたよもぎもカップをテーブルに置いて背筋を伸ばして姿勢を正す。
「さてお嬢さん。これまで話してきたようにあんたには親よりも先に死んでしまったって
よもぎはうつむき加減で小さく頷いた。しかしすぐに顔を上げて管理人に向かって問いかけた。
「でもでも、管理人さん、よもぎは被害者じゃないんですか? さっきだって……」
よもぎの言葉が終わる前に管理人は噛んで含めるように答え始めた。
「お嬢さん、そんな理解のままじゃ成仏はおろかここでの
よもぎは管理人の言葉に釈然としない気持ちを抱きつつも、その話にとりあえず耳を傾けていた。
「ほう、お嬢さん、何か言いたげな顔だな。よし、ならばもう少し突っ込んだ説明をしてやるよ。いいかい、さっきの記憶のふり返りをもう一度よく思い出すんだ。あんたあの日、なんで
「それは……それは絵馬の願掛けは誰にも見られちゃいけないって……」
「だめだめ、だめだね、そんなの。夜の神社にたったひとりで行くなんてなんて無防備すぎる。そこに油断と過失があるんだ。それではさらに聞こう。あんた、あの日は徹夜でチョコレートを作るつもりだったんだろ? それならば危険な夜ではなく翌朝一番に行ってもよかったんじゃないか? ついでにできたてのチョコレートをお供えに、なんてのも一興だったろう」
「あっ……」
よもぎは小さな声を上げた。同時に自分の顔からみるみる血の気が引いていくのがわかった。
「それにもうひとつ。そもそもの発端、願掛けを人に見られてはいけないとあんたに言ったのは誰だい?」
「それは……」
「それは?」
よもぎの顔がみるみる歪んで崩れ、その目からは涙が溢れ出した。
「うっ……うっ……」
小さな
「泣くな、よもぎ。あんたが泣くのはまだ早い。さあ、俺の問いに答えるんだ」
よもぎはあの日の光景を再び思い出していた。自分の思慮に欠けた行動が取り返しのつかない結果を招いたこと、その結果どれだけの人が悲しむことになったのかを今ようやっと実感したのだった。よもぎは息を詰まらせながらかすれた声を絞り出すのだった。
「も、
管理人は
「お嬢さん、俺はあんたのその涙が見たかったのさ」
管理人はそう言って立ち上がるとカウンターの前まで下がって戻って飲み残しの紅茶をすすりながら、泣き崩れるよもぎの姿を黙って見守っている。豪奢な小部屋の中にはよもぎが泣く声だけが響いていた。
よもぎが泣き疲れて落ち着きを取り戻したとき、目の前に置かれた紅茶はすっかり冷たくなっていた。
「お嬢さん、あんたはあの映像を見た後でも平静を装っていた。俺は不思議に感じて尋ねたよな。そうしたらあんたは自分は
管理人は自分のカップに紅茶を注ぎながら話を続けた。
「しかしお嬢さん、あのときのあんたの口からはかつてのあんたをとりまいていた周囲の人たちへの気遣いがぽっかりと抜けてたんだ。俺はあんたのそんなところが気に入らなかったのさ」
管理人はかすれかけたのどを潤すために紅茶を一口すする。
「いずれお嬢さんには話すことなんだか、とにかく、あんたにどんな功績があろうとなかろうと、上の連中があんたのことをどんなに買っていようと、そこが理解できていない限り俺はここを通すつもりはなかったんだ」
管理人のその言葉によもぎは頬の涙を拭うと姿勢を正して管理人の顔を見据えた。
「うん、いい面構えになってきたな。さ、新しい紅茶だ、冷めないうちにどうぞ」
管理人はよもぎのカップに二杯目の紅茶を注ぐ。よもぎが熱いカップを両手に持ってそれを口に近づけると、柑橘系の香りがよもぎの鼻腔を微かにくすぐった。
「管理人さん、ひとつだけ教えて欲しいことがあるんですけど」
「ん、なんだ?」
「あの……その……萌ちゃんはどうなったんですか。あっ、これは聞いたらいけなかったですか?」
「そりゃまあ大変だっただろうよ、あの直後は。しかしな、人ってのは生きて生活していればどんなことでもだんだんと思い出に変わっていくもんさ。お嬢さんのお友だちは少なくともまだこちらには来ていないし、それに天寿をまっとうしたならばこんなところに来ることもない」
そして管理人は笑みを浮かべてよもぎに言った。
「だからあんたは何も心配することはないのさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます