第94話 その名を呼んではいけない

 管理人は広がる砂浜を真紅の湖畔に向かって進む。よもぎは少し歩を早めて管理人と並ぶようにして歩いた。

 赤い水の波に触れることがないように距離を保った位置で管理人は立ち止まった。よもぎも管理人と並んで湖畔に立つ。すると管理人は刺股さすまたを片手に、もう一方の手で湖面の彼方を指差した。


「お嬢さん、あれが見えるかい?」


 管理人が指差す先では白い肌の女性が呆然と湖面を見つめたまま立っていた。よもぎはその姿を目を凝らして見つめる。


「あれは、あれは……なずな……さ……」


 よもぎがその名を口にすることを管理人が静止する。


「俗世の名を呼ぶんじゃない。ヘタをするとかれちまうぞ」

かれる?」

「そうだ。あれはまだ俗世へのいや未練が抜けっきってない。それにあれはさっきあんたも見たあの男がった二人のうちのもう片方だ」

「もう片方って、それじゃ……」

「お察しのとおりさ。あれはあの男にられてそのまま男に憑いていたのさ。ところがヤツは交通事故死だ。行き場をなくしたあれはそのまま俗世を彷徨さまよい、けがれになりかけたところを九尾きゅうびに拾われたってわけさ」

「そっかぁ、それでよもぎのことを知ってたんですね。でもでも、管理人さん。それならばあの人だって思いっきり被害者じゃないですか。なのにどうしてここにいるんですか?」

「フフ、そろそろ話の核心に近づいて来たようだな。さて、それじゃあその続きは歩きながらすることにしようか」


 管理人とよもぎは湖上のなずなを振り返ることなく今来た道を戻って行った。二人から遠ざかる湖面では再びなずなが真紅の中に音もなくズブズブと沈み込んでいく音が聞こえた。



 管理人は歩を止めることなく切り通しを進みながらよもぎに説明した。


「まずそもそもの発端なんだが、暗い夜道を女性がひとりで歩くことに無防備過ぎるんだな。遠回りでも明るい道を選ぶとか、自転車を使うとか、危険回避の策はいくつかあったはずだ。なのにそれをしなかったのは己の過失と見做されるんだ。これがひとつめのごう。そしてその結果、親よりも先に死んでしまったごうってのもある。あんたやあれのように若くして非業の死を遂げた連中にはまずこの二つのごうがあるわけだ」


 よもぎは管理人の言葉に反論も質問もすることなく黙って聞いていた。


「あれの場合はそれに加えて自分をあやめたあの男に憑いてしまったこと、けがれかけて九尾きゅうびに隷属したこと、九尾の下で姦淫と快楽に身を委ねたこと、そして……」


 管理人は立ち止まるとよもぎの方に向き直って続けた。


「そしてあれは自分が成仏したいがために取引条件としてあんたを九尾に差し出したんだ。そして九尾と協力してあんたを誘き寄せようとした」

「それじゃよもぎがあのハーレム男に引き寄せられたのは……」

「そう、あれの仕業だったのさ。あれは自分をった男にいていたんだ、あんたがられるところも見てたはずだよ」

「そんな……そんな……なずなさんが」

「そしてそんな行為もごうとして加算されるってわけさ」


 過去の記憶の再現にも、自分をあやめた犯人との対峙たいじにもさほどの動揺を見せなかったよもぎだったが、なずなの真意を知った今、動揺を隠すことができずにすっかり黙り込んでしまった。


「どうしたお嬢さん、かなりショックのようだが?」

「なずなさん、九尾をやっつけるときには協力してくれたのに……」

「あれはあれで自分のことを精一杯やったんだろう。目的のためには手段を選ばず。今の俗世はそんな連中が賞賛されたりしてる。あれはまさにそれをでいったようなもんさ。それでもどこかに罪悪感を感じていたんだろう。だからこそ最後の最後で九尾の成敗に一役買うことになったってことさ。さ、話はこれくらいにしてそろそろ行こうか」


 そう言って管理人は再び歩き始めた。よもぎは後を追いながらまたも管理人に問いかける。


「管理人さん、管理人さん。あの、その、なずなさんのごうって、どのくらいになるんですか?」

「それを知ってどうする? あんたに何ができるわけでもないろう」

「そうなんですけど……その……よもぎにもごうがあるってことですよね」

「だからこれからその話をするんだよ。じっくりとな」


 よもぎからは管理人の表情を伺うことはできなかったが、なんとなく楽しげな薄ら笑いを浮かべているように感じられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る