第93話 みそぎめぐり

 よもぎは再び管理人の後をついて歩く。湖を背に砂浜の奥にそそり立つ崖の岩肌を見ながら管理人はこれからのことを話し始めた。


「非業の死によってここに来る連中の多くはあの部屋で見る映像で真実を知った時点でかなり取り乱すんだ。自暴自棄になってそのまま沼に取り込まれちまうものもいるし、みそぎの真っ最中の相手に掴みかかるやつもいる。そのまま感情に飲み込まれて、まるで情念だけの存在に変化へんげしちまう場合もある」


 よもぎは黙って管理人の話に耳を傾けていた。


「しかしあんたは大したもんだよ。映像にも動じないし、あの男に対しても、あれは見事だったな、あれで正解だったよ。あそこであんたが感情に飲み込まれるようなことになったら、この後の予定は総崩れになってたところだ」


 管理人は歩きながらよもぎの顔をちらりと見ながら不敵な笑みを見せた。


「さて、次の段階に進む前にもう少し寄り道をさせてもらうぜ」


 管理人は崖の切れ目の狭い切り通しを目指して歩く。両側に岩壁いわかべがそそり立つ切り通しを抜けた先に、また別の赤い湖が広がっているのが見えた。


「管理人さん、管理人さん。よもぎ、ずっと気になってるんですけど……」


 よもぎの言葉に管理人は一旦足を止めて振り返る。そこでよもぎはすかさず管理人に近づくと、たたみかけるように質問をつぶけた。


「ここって、何をするところなんですか? さっきからみそぎ、禊って言ってますけど、それって何なんですか? あと、あと、あの赤いの、あの赤い水は何なんですか? 教えてください! 教えてください!」


 管理人は軽い溜め息をつくと、岩壁いわかべの切れ目の向こうに広がる湖面を見ながら話し始めた。


「あれはな、人の怒り、ねたみ、そねみ、苦しみ、悲しみ、そんなネガティブなものが情念の波となっておりのように溜まったもんだ」


 管理人は諭すような口調で続ける。


「ここはね、非業の死を遂げた者が来るところなんだ。非業の死ってのにもいろいろあるんだが、ここは主に事故や事件で死んだ連中が来るんだ。おっと、非業と言っても自殺は別だぜ。あれはまた全然違うところに回されるんだ」

「それじゃよもぎは……」

「そう、お嬢さん、あんたは天寿を全うすることなくあやめられた。だからここに来たわけだ。そしてさっき見た映像で自分の死ってものを認識してもらったわけさ。ところでお嬢さんの質問、みそぎについてだけどな……」


 よもぎはこれから聞かされるであろうことにできるだけ動じることがないよう、軽く呼吸を整えて管理人の言葉を待った。


「あそこにはな、そんな連中が取り込まれて溶け込んで、そうだな、料理が好きなお嬢さんに解りやすく例えるならば、情念のポタージュスープってところかな」


 管理人は我ながらうまい例えができたものだと、自賛の薄ら笑いを浮かべた。


「ここに来る連中ってのはあんたみたいに達観したヤツなんてそうそういないんだ。ほとんどは未練やら無念さやら復讐心やらにがっつりと支配されてるんだ。そして当事者同士が対峙たいじしようものならもう大変さ。まるで感情のビッグバンって感じだな」


 管理人は再び自分の言葉に酔ったような笑みを浮かべた。


「そしてみそぎさ。禊ってのはそんな難しいことじゃない、あの中に入ることさ」

「あの中にって……それだけなんですか?」

「そう、それだけ。だがな、さっきも言ったようにあの中には成仏はおろか審判すらされずにここで感情のままになっちまったのが幾星霜いくせいそうに渡って濃縮されてるんだ。怒りだけになった者、悲しみだけになった者、痛みや苦しみだけになった者、その情念だけの存在で未来永劫ここに留まるのさ。そんな中に身を沈めるとどうなるか」


 管理人はよもぎに鋭い視線を向けて続けた。


身体からだの穴という穴からあの赤いのがじわじわとしみこんでいくのさ。目、鼻、口、耳……ほかにも、とにかくすべてさ。もちろん、お嬢さんのその白い肌の毛穴という毛穴にもな」


 よもぎはその言葉にごくりと唾を飲み込んだ。管理人はなおも続ける。


「やがてはあのポタージュスープであんたの身体からだはすっかり満たされる。例えるならば、苦痛という液体に漬かったピクルスみたいな……」

「管理人さん、食べものに例えるの、やめてください!」


 よもぎは耳をふさぎながら首を振って管理人の言葉を遮った。



 そのとき突然よもぎの目の前に広がる景色が深紅に染まる。そのあかは光を透過することなく前方の視界はべっとりとしたあかい何かだった。

 よもぎは目を凝らそうと何度か瞬きを試みるが瞼の内側も眼球の内部までもがそのあかに満たされていく。そしてよもぎの鼻と口から無理やりに流し込まれるあかに肺臓も内臓もまた満たされていく。

 血液もリンパ液も、よもぎの体内にある液体のすべてがそのあかにすっかり置き換わった頃、よもぎは首元に思い出したくもない圧迫感を感じた。続いてやり場のない怒りと悲しみがよもぎの心を満たし始めた。

 このまま心が完全にあかに支配されないよう、よもぎは必死にそれから逃れようとじたばたと手足を動かしてみるが、身体からだ全体を覆う紅は微細な繊毛せんもうとなって皮膚にまとわりつき、やがて毛穴のひとつひとつからそれらが意思を持った触手のようにぞわりぞわりといこんできた。

 このままではこの沼に取り込まれる、管理人さんが言ってたように、よもぎもこの沼の中に……いやだ、そんなのいやだ、よもぎは、よもぎは成仏するんだから。


「そんなの、いや――――!」


 よもぎが心の中でそう叫んだ瞬間、目の前には無機質な岩壁いわかべと砂地が広がり、その壁に寄りかかって薄ら笑いを浮かべる管理人の姿があった。



「さて、お嬢さん、いかがだったかな? 今、俺はあんたにここでのみそぎを疑似体験させてやったんだが。どうよ、言葉なんかで説明されるよりもずっと手っ取り早かっただろ」


 よもぎの全身はまた小刻みに震えていた。そしてそれをにやけた顔つきで眺める管理人に向かってよもぎは震える声で言った。


「管理人さん、よもぎ、怖かった。すごく怖かったです」

「ハハハ、そりゃ結構。俺はここの管理人、ただの親切な案内人ってわけじゃないんだぜ。ほんとは怖――いひとなのさ。それに、ここでの俺とあんたとの関係性ってのもハッキリさせておかないといかん。俗世でもそうだが、こちらでも同じようなもんでな、主従関係ってのは明確にしておくべきなんだ。今のでわかったろ? 俺はあんたを如何様いかようにもできるってことさ」


 管理人は寄りかかっていた壁から離れると「さて、そろそろ行こうか」と言いながら刺股さすまたを手にして次の湖水を目指して歩き出した。歩きながら管理人はよもぎに言う。


「ここでみそぎを終えた者だけが審判を受けて成仏することができるのさ。だからあの中に取り込まれちまうようではそもそも成仏なんぞできっこないんだ」


 そして管理人はなおも続けた。


「まあまあ、お嬢さん、あんたはこの俺に向かって喰ってかかるくらいの気構えがあるんだから、これから先も大丈夫だろう」


 そういって管理人はよもぎに向かって、先ほどのいやらしいではなく、優しげな笑みを向けるのだった。

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