第90話 一九八六年二月一〇日

 前の席に座るクラスメイトがイスを跨ぐようにこちらを向いて背もたれに腕を載せながら興味津々な顔で問いかける。


「ねえ、よもぎはどうするの、やっぱ先輩に?」

「うん、そのつもり。明日はお休みだから今夜徹夜で作るよ。それであさっての放課後に、って考えてるんだ」


 クラスメイトの肩越しに黒板に書かれた文字が見える。二月一〇日(月)、女子にとっての一大イベントであるバレンタインデーを間近に控えた月曜日、外は乾いた北風が冷たかったが教室の中はセントラルヒーティングで十分に暖かだった。

 よもぎは少しだけ不安な気持ちを抱きながら続けた。


「先輩、部活はもう引退だけど今は大学受験が近いから迷惑じゃないかなぁ、なんて。それに私たち一年生だけじゃなくて二年生の人たちもいるし、ハードル高いよね」


 そんなよもぎを励ますようにクラスメイトはカバンから小さな板切れを出してよもぎの前に置いた。


「じゃ――ん! そんなときは神頼みもありっしょ。ここはやっぱり天に御坐おわします万能の神に願いをこめて……」

もえちゃん、これって神社の絵馬でしょ。そりゃ神様は神様だけど」

「まあまあ、細かいことは置いといてさ、よもぎもこれに願掛がんかけすればいいんだよ」


 よもぎは目の前の絵馬を手に取って表と裏をまじまじと見つめる。


「ところで萌ちゃん、これってどこの神社のなの? それとも神社ならどこでもいいのかなぁ」

「いやいやそりゃまずいっしょ、それは大ケヤキ神社の絵馬。ほら、私もいっしょにもらってきたんだ」


 そう言って萌ちゃんはもう一枚の絵馬をよもぎに見せた。


「じゃあ萌ちゃん、明日いっしょに……」


 萌ちゃんは手を前に出してよもぎの言葉をさえぎる。


「ダメダメ、願掛けは人に見られちゃダメなんだよ」

「え――そうなの? ひとりかぁ……わかった、よもぎは今日の帰りに寄ってみるよ」

「それなら今から書かないとだね。よっし、わたしも書こうっと」


 そして二人は絵馬に願いを書き始めた。


「ねえ、よもぎ。せっかくだからさ、先輩の合格祈願もいっしょに書いちゃいなよ」

「ええっ、そんなの図々しくないかなぁ」

「大丈夫、大丈夫、神様もわかってくれるよ。お金のないな女子高生のためにきっとひと肌脱いでくれるって」


 萌ちゃんのそんな言葉に背中を押されながらよもぎは白木の絵馬にサインペンで自分の願いごとと先輩の合格祈願を書き込んだ。


 放課後、よもぎは紺色のダッフルコートに赤いチェック柄のマフラーと手袋という完全防備で自転車に跨がり校門を後にした。走りながら腕時計に目を落とすと時刻は午後四時過ぎ、二月のこの時間はもう夕暮れに近かった。


「このままN市駅にチャリを置いてダッシュで池袋いけぶくろ、チョコの材料を買い出しして六時には戻って来れるよね」


 よもぎは速度を少しだけ速めながらN市駅を目指した。駅の駐輪場に自転車を止めるとよもぎは改札横の公衆電話から家に電話をかけて寄り道をすることを伝えてから改札口を通過した。



 日もすっかり落ちた午後六時、買いものを終えたよもぎはN市駅の改札を出て駐輪場を目指す。手には学生カバンと、迷いに迷いながらもセレクトしたバレンタインチョコレートの材料一式が詰まった買いもの袋を携えていた。すっかり寒く暗くなった駐輪場に係員は既に居らず、人影もまばらだった。


「ふふふふーん、ふんふふーん」


 よもぎは心細さを紛らわせようと今一番お気に入りの曲を口ずさむ。そしてカゴに荷物を押し込むと大ケヤキ神社を目指してベダルを漕ぎ始めた。

 よもぎが駐輪場を出て行ったすぐ後からひとりの男が原付バイクを押しながら駐輪場から出てきた。男はヘルメット代わりの白い安全帽をアミダにかぶるとよもぎと同じ方向に走り去って行く。つぶされたマフラーが発する甲高かんだかい排気音がやけに耳障りだった。


 大ケヤキ神社の入口、よもぎは荷物を手にして鳥居の前で一礼する。鳥居をくぐって左手にそびえる巨木を見ながら石段を駆け上がると、そこに広がる小ぢんまりした境内は静まり返って人影もなかった。そして遠くに響く原付バイクの甲高い排気音がその静けさをより一層強調した。

 小さな鳥居に再び一礼、境内を覆うように枝を広げるこの神社の由来でもある御神木の大ケヤキにもペコリと頭を下げるとよもぎはゆっくり歩いて拝殿の前に立つ。今ここには自分しかいないことを確認するとよもぎは財布を開いて小銭を探した。


「やっぱここでケチはいけないよね」


 よもぎは百円玉を一枚摘み上げるとそれを賽銭箱に投げ入れた。

 参拝を終えて拝殿の右にある絵馬所の前でよもぎはカバンから絵馬を取り出した。境内に灯る防犯灯の薄明かりでもう一度内容を読み返すと「よし」と一言気合いを入れて手にした絵馬を目立つあたりににぶらさげる。よもぎは両手を合わせて深々と一礼、最後にほんのり紅潮した顔で納めた絵馬に向かって小さく手を振ってその場を後にした。


 よもぎが、さあ帰ろうと振り返ると鳥居の脇に佇む人影が見えた。


「ヤバッ、見られちゃったかな?」


 よもぎは少しばかり落胆した。しかし絵馬はもう納めてしまったのだ、あの人は今来たんだ、納めるところは見ていないに違いない。よもぎはそう考えて絵馬所を振り返ることなくそのまま歩き始めた。視界の端には人影がまだ映っている。よもぎはその人影と目を合わせないようにうつむき加減で歩を速めた。


 するとその人影ははっきりとした気配とともによもぎの前に立ちはだかった。それを避けようとするよもぎ、しかし人影は行く手を阻むように同じ方向に立つ。よもぎが無理やりその脇をすり抜けようとしたそのとき、その人影がよもぎの片腕を掴んだ。

 反射的に身をすくめるよもぎ。突然の出来事に速鳴る心臓は恐怖と緊張で押し潰されそうだった。


「やめて、やめてください」


 よもぎは絞り出すような声を上げながら掴む腕を振り切ろうと自分の腕を振る。その勢いでよもぎの手から学生カバンと買いもの袋が落ちてその中身が土の上に散乱した。


「やめて、大声を出しますよ!」


 よもぎは掴まれた腕を振りほどこうともう一方の手で相手の手を掴もうとするが恐怖に身がすくみ身体からだが思うように動かなかった。よもぎは人影の正体を見ようと顔を上げた。そこには白い安全帽と歯並びが妙に悪いだらしない口元の男の顔が見えた。

 よもぎは必死に抵抗する。もうカバンも荷物もどうでもよかった。とにかく逃げるのだ、この腕を振りほどいて逃げることができればあとは通りで大声を出せばそこに誰かがいて助けてくれるはずだ、とにかくなんとかしなくちゃ。よもぎは動かせる方の手を滅多やたらに振り回した。

 何度目かにやわらかいものをえぐるようないやな感触を感じたその瞬間だった。


「やってくれたな、テメェ。手加減してればいい気になりやがって」


 男は低くかすれた声とともによもぎの肩を掴んだ。よもぎはなおも抵抗を続けた。


「やだやだやだやだ……」


 声にならない声を上げながら男の足をかかとで踏みつける。


「いい加減にしろ、この野郎!」


 暴れるよもぎを押さえつけようと男は手近な衣服を掴むとそれを力任せに引っ張る。すると赤いウールの細い布がずるずると伸びた。男が掴んだその布はよもぎのマフラーだった。それに気づいた男はもう片方の手でマフラーのもう一方を掴むとそれを満身の力で引き絞った。男はぐいぐいとマフラーを締め上げる。よもぎは首に強い圧迫感を感じながらもそれを振りほどこうと首に指を差し込もうとするが、締め続けられるマフラーと首の間に指が入る隙間はなかった。


「おかあさん……助けて……誰か、たす……け……」


 よもぎは必死に助けを求めた。が、しかしよもぎの口からは既に声は発せられず、代わって乾いた喘鳴ぜんめいだけが吐き出されていた。滲んで歪むよもぎの目に最後に映った光景は夜空に黒いシルエットを浮かべて自分を見下ろしている、涙でぼやけた御神木の姿だった。

 抵抗していた腕もジタバタとしていた足もやがてその動きは止まり、男の両手にはずっしりとした人の重さだけが残る。ついに抱えられていた身体からだはずるずると境内の土の上に崩れ落ちた。


「チッ!」


 乾いた舌打ちとともに男はその場から立ち去る。石段を駆け下りるかすれた足音に続いてあの耳障りな甲高かんだかい原付バイクのエンジン音が遠ざかっていった。


 物音ひとつ聞こえなくなった真冬の境内に一瞬の風が吹き抜ける。横たわるよもぎを見下ろす御神木の枝葉はざわりざわりと鳴り響き、絵馬所の絵馬もぱかりぱかりと乾いた音を響かせていた。

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