第87話 さわるな危険

 よもぎはゆっくりと上半身を起こして周囲を見渡す。そこは風もなく音もなく、見上げた濃紺の空には星はおろか雲すらも無かった。そこに生気を感じさせるものは何ひとつなくただ無機質な砂浜とそびえ立つ岩肌、そしてその向こうには続く岩壁いわかべに囲まれた湖があるだけだった。

 よもぎはゆっくりと立ち上がるとまだおぼつかない足取りですぐ先に見える湖岸へと歩き出した。乾いた砂に足を取られながら恐る恐る進んでいく。歩くたびに靴の隙間から入り込む砂の感触が気になった。

 水辺が近づくにつれよもぎの心が得も言われぬ不安に包まれる。


「ダメ、これ以上は絶対危ない」


 そう思いながらもしかしよもぎの足は水際に引き寄せられるのだった。


 目の前に広がる湖は広大で、そびえ立つ岩壁は稜線となって遥か彼方まで続いていた。その切れ目の向こうにもまた湖は広がり、垣間見える水平線と空との境界には逢魔が時が紫色のグラデーションを描いていた。その湖面は磨き抜かれたガラスのように滑らかで波ひとつなく、透明感のない血のように赤い水が無限の彼方へと続いていた。

 よもぎは波打ち際までたどりつくと、そこにしゃがんで水面を覗きこんでみた。真紅の湖面にはよもぎの顔が映りこむこともなくその深さすらもわからなかった。よもぎは水面に触れてみようと恐る恐る手を伸ばす。


「さわるんじゃない!」


 突然響き渡る男の声によもぎはびくっと身体からだをこわばらせて伸ばしかけてた手を思わず引っ込めた。よもぎは声の主を探そうと周囲をキョロキョロと見回してみたがどこにも人影は見当たらなかった。


「お嬢さん、とにかくそこから離れるんだ。その水に触れたが最後、あんた成仏どころの話じゃなくなるぜ」


 再び響く男の声。よもぎは声の主を突き止めようともう一度周囲に目を向ける。すると湖面から切り立つ崖に長身で細身なスーツ姿の男が見えた。

 その男は崖の中腹にある小さなせり出しに長い棒のようなものを携えて岩壁いわかべを背にしていた。男はよもぎが自分の存在に気づいたと知ると金色の髪をかき上げながらこちらを見下ろして薄ら笑いを浮かべた。

 よもぎはすぐに後方に逃げることができるように踵で砂地の足元を探る。その様子を察した男は明るい口調でよもぎに呼びかけた。


「そんなに怖がらなくていいぜ、お嬢さん。俺はあんたの先導役みたいなもんさ。どれ、今そっちに行ってやるよ」


 そう言うと男はその場から瞬間移動でもしたかのようによもぎのすぐ目の前に降り立った。

 よもぎは長身の男を見上げる。ブラックスーツに糊の効いた白いシャツと細身の黒ネクタイという出で立ちは喪服や礼服というよりもむしろ水商売の雰囲気が漂っていた。しかし手にしているのは先端部分に棘のような突起がある朱に塗られた金属製の刺股さすまたである。それと男の服装とが妙なミスマッチ感を演出していた。


「危なかったな、お嬢さん。もう少しでこの沼の引力に取りこまれるところだったぜ。もしあのまま水に触れていたなら、あんた今ごろあの中に溜まったおりや怨念の一部なってたぜ」


 そして男はもう一歩よもぎに近くと腰をかがめて顔を近づけながら自己紹介を始めた。


「ここは苦行くぎょうの沼、俗世での諸々もろもろを清算する場所だ。そして俺はここの管理人みたいなもんだ。とりあえずよろしくな」


 男はよもぎの目の前でペコリと頭を下げた。ヘアクリームでセットされたオールバックの髪に隠れて小さな二本の角らしきものが見えた。よもぎは挨拶を返しながら恐る恐るその角について尋ねてみた。


「あの……よもぎと言います。ごめんなさい、よもぎ、自分のこと、ほとんど何も覚えてないんです。それで、あの、管理人さん、その管理人さんの……」

「あっ、これか? これは、まあ、その、角だ」


 管理人は自分の頭を軽くポンポンと叩きながら照れくさそうに笑った。


「俗世の人間たちからは鬼とか獄卒ごくそつとか呼ばれてる、そんな存在さ」

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