第五章 苦行の沼

第86話 黒い入江の走馬灯

 耳元で若い夫婦と思しき声が微かに聞こえた。ゆっくりと瞼を開いてみるとそこにはピントが定まらない無数のぼやけた光のたまが広がるばかりだったが、その声の主が自分の頭のすぐ真上にいることはわかった。


「ねえ、あなた、この子の名前は考えてくれたかしら?」

「うん、俺なりにとびきり女の子らしい名前を考えたんだ」

「ほんとに? どんな名前かしら。ねえ、早く教えてよ」

「生まれたのが一月七日、七草ななくさの日だろ? だから七草にちなんで春らしいのを考えたんだ。よもぎ、ってのはどうだ? ひらがなで『よもぎ』だ」

「ぷっ、アハハハ、ちょっとあなた、ああ可笑おかしい」

「なんだよ、笑うことないだろ。これでも必死で考えたんだ」

「ごめんなさい、あなた。でもね、ちょっと違うのよ。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ホトケノザ、すずな、すずしろ、これが春の七草よ。よもぎは入ってないのよ」

「ほんとか? しまったなぁ、俺の中ではこの子はもう『よもぎ』なんだよな」

「でもいい名前よ。七草のことはさて置いても、とても元気できれいな名前だと思うわ。私は賛成よ」

「そうか、おまえも気に入ってくれたか。よし決まりだ。よもぎ、今日からおまえの名前は『よもぎ』だぞ」


 そんな幸せそうな会話とともに頬をツンツンと指でつつかれる感触を感じながら意識は再び深い眠りの底に落ちていった。


 次に目を開いたとき、そこは明るい蛍光灯に照らされたふかふかなベッドの上だった。頭の上ではオルゴールの音色とともに花飾りがひらひらと回転している。


「ごめんなさい、あなた。せっかくチケットが当たったのに。まだよもぎも小さいし大阪までの遠出はできないのよ」

「おまえが言う通り、今はよもぎのことを第一に考えないとだな。なあに、大阪万博のチケットなんて欲しがる人はたくさんいる、誰かに譲るさ」


 くるくる回る吊り下げメリーの音色とその合間に聞こえる会話、それにテレビからの「コンニチハ――」の唄声を子守唄にして、再びゆっくりと深い深い眠りに落ちていく。


 水色のスモックに黄色い肩掛けかばんを下げた女の子が園庭の遊具の間を抜けてトコトコと走って来た。


「おかあさ――ん、これ見て――」

「ほらほら、そんなに走ったら転んじゃうわよ」


 母親は走って来る子を受け止めようと腰をかがめて両手を差し出す。女の子はカラフルなリボンと金紙を貼って作られたボール紙のメダルを手に母親の腕の中へと飛び込んだ。


「おかあさん、ほら一等賞だよ」

「すごいね、よもぎは頑張ったね」


 母親が幼いよもぎの頭をくしゃくしゃと撫でると、よもぎははち切れんばかりの笑顔で母親の顔を見上げた。


「今夜はよもぎの好きなものを作ってあげる。何が食べたいかな」

「よもぎ、クリーム煮がいい、白菜の」

「よ――し、じゃあこれからお買いものして帰ろうね。白菜さん、ベーコンさん、牛のお乳の牛乳さん……」

「はくさいしゃん、べーこんしゃん……」


 母親の声に合わせてよもぎも元気に歌い出す。つないだ手を大きく振りながら楽しそうに見上げた景色のその先に広がっていたのは満開の桜の花だった。


 春の風が淡いピンクの花びらを吹雪のように降り注がせると、よそ行きのお出かけ服でおめかししたよもぎの頭にもふたひら、ひらの花弁が落ちる。背中にはその身体からだにはまだ大きく見える赤いランドセルがあった。

 小学校の入学式、よもぎは父親と母親の手を取って式が催される体育館を目指していた。


 早春の体育館、その空気はピンと張り詰めて冷んやりとしていた。シックな濃紺のワンピースに白い襟が映えるかしこまった装いに身を包んだよもぎは式が終わると校庭の片隅でクラスメイトと記念写真を撮り、サイン帳に六年間の想い出とお別れの言葉を書き込んではそれをみんなと交換し合った。


 ふと顔を上げるとひと吹きの風が柔らかい髪をなびかせる。それは胸元の白いスカーフもふわりとたなびかせた。中学からの新しいセーラー服はよもぎのお気に入りだった。小学校の卒業式で大げさな別れを言い合ったクラスメイトたちも、そのほとんどがそのまま同じ地元の中学校に進学していた。


 そんなクラスメイトたちとの楽しい日々はあっという間に過ぎ行く。桜の蕾もふくらみ始めた暖かい日差しの下でよもぎは卒業証書の紙筒を手にしてそれぞれの道を歩まんとする友人たちと最後の写真を撮っていた。


 大好きだったセーラー服に別れを告げて、よもぎは紺色のブレザーとプリーツスカート、それにリボンタイの制服を身に着ける。


「あ――もう、お母さん、なんで起こしてくれなかったの。もう遅刻だよ」


 母親は大きめのマグカップに注いだ紅茶とトーストをダイニングテーブルに並べながらよもぎをたしなめる。


「もう高校生なんだからちゃんと自分で起きなさい。それに朝食はらないとダメ!」

「だって、おかあさん……」


 すると母親はゴネるよもぎの前に置かれた熱い紅茶のマグカップに冷たい牛乳を注ぎ込んだ。


「これならすぐに飲めるでしょ。さっさと飲んで学校に行きなさい」


 よもぎはぬるく飲みやすくなったミルクティーを一気に飲み干すと「いってきます、おかあさんありがとう」の言葉を残して慌ただしく玄関のドアを開けた。


 扉を開けた向こうに広がっていたのは調理実習室、広く清潔なステンレス製の調理台の前でよもぎは得意の料理で腕を振るう。

 クラスメイトとの楽しい試食の後は実習中にちゃっかりと一緒に焼いておいたクッキーをみんなで小分けにして包み、色とりどりのリボンで飾る。みなそれぞれ思いを寄せる男子にそれを手渡すのだ。よもぎも憧れの先輩に渡そうと思っているがバスケ部のエースであるその先輩の競争率はかなりのものだった。

 よもぎは自信作のクッキーのおともにと紅茶をいれた。


 大きめのティーカップに注いだ紅茶をちゃぶ台におくと「ありがとう」の声とともに満面の笑みをたたえたヒロキがそこにいた。


「これは……ん? なにかハーブが入ってるのか?」


 よもぎは紅茶に黒胡椒を振り入れていた。


「どうですか、ヒロキさん。これも身体からだが温まるんですよ」

「うん、いいね、これは。目からウロコって気分だよ。なあ、神子薗みこぞの、君も一口飲んでみろよ」


 ヒロキの隣には可憐がいた。可憐もヒロキに勧められてよもぎがいれた紅茶を口にする。


「ほんと、これはいいわね。私まで紅茶派になっちゃいそうだわ」


 三人はちゃぶ台を囲んで満ち足りたひとときを過ごしていた。この幸せがいつまでも続きますように、そんな願いとともに静かに目を閉じたよもぎがゆっくりと瞼を開くと、そこには草も木も生えていない殺風景な景色が広がっていた。


 よもぎが目覚めたそこは黒い岩肌に囲まれた小さな入江の砂浜だった。

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