第85話 三〇年後の残像

 ヒロキと可憐は夕暮れ時の大ケヤキ神社で御神木を見上げていた。初夏の枝葉をたたえる老木のシルエットを見ながら境内に向かう石段を上がると、そこにはこぢんまりとした境内が広がる。二人は鳥居の前で一礼すると歩を進め奥の拝殿で手を合わせた。



 図書館でよもぎと思しき記事を読み終えたとき、ヒロキの心は激しい怒りの感情で満たされていた。隣に座る可憐の耳にも届きそうな激しい動悸、紅潮する頬と耳たぶ、その目から流れ出す涙をヒロキは抑えることができず、眼に映る光景がにじんでぐにゃりと歪んで見えた。机上に置いた両手は握りこぶしを作りそれがふるふると小刻みに震えていて、静まり返った閲覧コーナーではあるがそんなことにはお構いなしで今にも激しく天板を叩き出さんとしていた。そんなヒロキの変化に気づいた可憐は彼の手を取るとそれを両手でやさしく包み込んだ。

 可憐の体温を感じたヒロキの身体からだは徐々に落ち着きを取り戻し、こわばっていた肩も激しかった動悸も徐々に静まっていった。ヒロキは自分の手を包む可憐の手を握り返し「ありがとう」と小さくつぶやいた。

 可憐はヒロキが落ち着きを取り戻したと見ると「出ましょう」と耳打ちして席を立つ。そして図書館を出た二人はどちらが言い出すともなくこの大ケヤキ神社に向かって歩き出し、今、この拝殿で手を合わせていたのだった。



「可憐、君がいなかったらオレは……」

「そうね、あのときのヒロキ、今までにない異様な雰囲気に包まれていたわ。ああなってしまうとダメ、どんなものを呼び寄せてしまうか……実際、ヒロキがあの記事を読み終えたときから周囲の空気が変わったのよ。何か邪悪ないやな雰囲気がまとわりつき始めて。だからすぐにでもあの場を立ち去るべきだと思ったの」

「そうだったのか……確かにあのときは自分の感情に抑えが効かなくなって、でも可憐が手を添えてくれたおかげで戻って来られたってか、その、あ、ありがとう。とにかく、助かったよ」


 ヒロキは拝殿に再び一礼すると可憐の手を取って歩き出した。


「なあ可憐、君は以前に見えるけれどはらえないって言ってたよな。でもさっきのあれは、祓ってくれてたんじゃないか?」

「さあ、どうかしらね。私にもよくわからないわ。あのときは、このままじゃヒロキが大変なことになる、なんとかしなくちゃって気持ちが先に立ってて、とにかくヒロキが落ち着くようにって考えてたの。それに憑いてるものを祓ったわけではないし、むしろ寄せつけないようにできた、ってところかしら」

「でもそれってすごくないか? ほとんど霊能力者じゃないか、すごいよ、やっぱ」

「やめてよ、そんなんじゃないわ」


 可憐はそう言いながら鳥居のすぐ隣に視線を向ける。そこには工事現場で使われる黒と黄色の柵に囲まれた小さな更地があった。


「ヒロキ、もしかしてここが……?」

「そう、ここが先代の御神木があった場所だよ。そしてよもぎがいた場所だ」


 ヒロキはそう言って目の前にあたかも御神木が立っているかように空を見上げた。


「すべては三〇年前、この神社と御神木の前で起きたことだったんだな。それにしてもあいつ、よもぎのやつ、あっけらかんとしやがって……」


 ヒロキの心が回想とともに再び怪しい念に包まれるのではないかと感じた可憐はつないでいるヒロキの手をぐっと握りしめた。


「可憐、心配しなくても大丈夫だよ。今はさっきと違って落ち着いてる」


 そう言ってヒロキは可憐にやさしく微笑みかけると再び視線を空に向けた。


「あいつ、ちゃんと成仏できるよな、大丈夫だよな」

「ええ、きっと大丈夫よ。よもぎちゃんってあれで案外強い子だもん」

「だよな」


 二人は並んでかつてそこにあった御神木の面影を見ていた。そしてその面影に向かってヒロキは小さくつぶやいた。


「よもぎ、これで本当にお別れだ。向こうでもうまくやるんだぞ。元気でな」


 ヒロキと可憐はかつてそこにあった御神木を思い浮かべながら深々と一礼する。そして互いに手を取り合うと、振り返ることなく大ケヤキ神社の石段を下りていった。



 二人の後姿を見送るようにかつての御神木が陽炎となって現れる。白く輝き天に向かって雄大に枝葉を広げる残像の根元には白く輝く少女が立ち、去りゆくヒロキと可憐の後姿を見送るように手を振っていた。

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