第81話 曲の名は。

 料理と飲み物が出揃うと涼多りょうたが乾杯の音頭を取ってささやかな宴が始まった。宴が進むにつれて涼多を中心に香苗かなえとヒロキの三人の話の内容は仕事の進め方や業務改善のあり方などに傾いていく。可憐にはさっぱり解らないことばかりだったが、この店と宴席の雰囲気は気に入ったようで終始笑顔で会話に耳を傾けていた。

 三人の話題がちょうど途切れたとき、ヒロキは可憐が手持ち無沙汰にしていることに気づいた。


「あっ、可憐、ごめん、君がいるのに仕事の話になってしまって」

「ううん、いいのよ。すべてが初めてのことだから聞いているだけでも楽しいし、それに今まで知らなかったヒロキのことも知ることができたし」


 そんな二人の会話を涼多は聞き逃さなかった。


「ちょっと待った、お前ら、ちょっと待ったあ!」


 涼多は歌舞伎役者が見栄を切るようなオーバーアクションとともに二人の会話に割り込んだ。


「今、お前たち名前で呼んでたよな。ね、香苗さんも聞きましたよね?」


 涼多は香苗に同意を求めたが香苗は何杯目かのハイボールのグラスを傾けながらカウンターに載る大皿を眺めるばかりでその問いかけに応えることはなかった。一方涼多はヒロキを相手にやたらとハイテンションになっていた。


「大学のカフェテリアでも、タクシーの中でもずっと苗字で呼び合ってたし、会社でもさ……そりゃ会社はさ、しょうがないよな、でもさ、なんなんだよ、お前らは」


 涼多はかなり酔いが回っているのか声も大きく呂律も怪しくなっていた。そんな彼に香苗が一言釘を刺す。


「涼多君、こういうことはね、聞き流してあげるのが大人のマナーなの。わかってる? ね、リョ・ウ・タ・クン」


 そういって香苗は涼多の片頬をつねり上げながら続けた。


「苗字から名前にってね、彼らにとっても一大決心なのよ。君には解らないかなぁ、この心の機微ってやつが」


 そう言うと香苗は涼多の頬から指を放してグラスを手に取るとそれを掲げながら「よかったわね」と可憐に微笑みかけた。そしてグラスに残った既に気が抜けたハイボールを一気に飲み干すと、「ママ――、おかわりお願い」と声を上げた。

 香苗の声に呼ばれてカウンターの向こうから矍鑠かくしゃくとした老齢のママが出て来てグラスを受け取りながら香苗に一言注意する。


「香苗ちゃん、今日はちょっと飲み過ぎよ。これで最後にしなさいな」


 そう言ってママはカウンターで新しいハイボールの用意を始めた。


「まあ何はともあれ、お前らもほら、これで彼氏と彼女ってことだよな。いろいろとめでたいってことで、さ、もう一度乾杯するか」


 涼多はなんとか場を盛り上げようと再び明るく振る舞った。



 するとそのとき、店内に流れる有線放送からヒロキにとっても可憐にとっても聞き慣れたメロディーが聞こえて来た。硬質なエレクリックピアノが奏でる煌めくようなフレーズから軽快なビートの前奏が続く。そして透明感のあるボーカルが感情を抑え気味に歌うAメロからBメロへ、そして再びあのフレーズに繋がる。ヒロキと可憐の会話は止まり、流れるその曲に聴き入っていた。不思議に思った涼多が二人に問いかける。


「お、おい、どうした? お前たち……」


 ヒロキは涼多の言葉を遮るように手を前に出した。


「先輩、すみません。この曲、今流れてるこの曲、なんて曲か知ってますか?」

「いや、知らん。これがどうかしたか?」


 ヒロキは目の前の香苗にも同じ問いかけをする。


「私も知らないわ。でも音の感じからするとすいぶんと古いんじゃないかしら。なんとなくバブリーな感じがするし」


 すると涼多がカウンターで水割りを作るママにも声をかけた。


「ねえ、ママ……」


 涼多の言葉が終わる前にママはハイボールのグラスと紙のコースターを手にしてテーブルの前にやって来て答えた。


「ガラスのPALMパーム TREEツリー、だろ」


 ママはグラスを香苗の前に置くと自分を見つめるヒロキと可憐に笑みを返した。


「懐かしいねぇ、まだバブルで景気がよかった頃の曲さ。このバンドは出す曲、出す曲みんなヒットしてね、この曲を最後に一旦解散したんじゃなかったかな」

「へえ、ママ、やっぱり年の功だね。バブルなんて、ヒロキ、お前が生まれる前のことだよな。で、お前、この曲がどうかしたのか?」


 ただならぬ様子のヒロキと可憐の顔を涼多は訳も分からず何度も見くらべる。その間に流れる曲は中盤のギターソロ、そしてサビのリフレインへと続きやがてフェードアウトしていった。

 ヒロキは居ても立ってもいられない気持ちでいっぱいだった。とにかく早くこの曲について調べたい。彼の気持ちを察した可憐が言い訳を考えて中座しようとしたそのとき、ヒロキが涼多と香苗に向かって頭を下げた。


「先輩、香苗さん、今日はごちそうさまでした。オレ、ちょっと用事を思い出して、その……お先に失礼させてください」


 突然のことに呆然とする涼多だったが、彼の隣で香苗は何かを察したのだろう詮索などせずにヒロキの申し出をすんなりと受け入れた。


「どうしたの、なんて野暮なことは聞かないわ。こっちのことは気にしなくていいから、とにかく太田クン、神子薗みこぞのさんをちゃんと送り届けるのよ」

「ご招待くださったのに……すみません」


 可憐も深々と頭を下げる。


「いいのよ、若い二人にはいろいろあるわよね。私は涼多君ともう少し飲んでくから、ほんとに気にしないでね」

「何が若い二人だい。あっしから見たらあんたらみんな同じだよ」


 そう言ってママも手を振りながらヒロキと可憐を送り出す。二人は暖簾の前でもう一度深々と頭を下げると慌てるように店を後にした。

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