第76話 二人の場所

 大学内のカフェテリア、その一番奥にある四人掛けテーブルはこの春からヒロキと可憐がまるで指定席であるかのようにいつも座っている場所だった。就活に備えてゼミ以外は履修していないヒロキだったが、ハーレム男との事件以降はほぼ毎日そこに可憐が座っているかをチェックするために足を運んでいた。


 やはり今日も来ていない。どうしたんだろう、体調でも崩しているんだろうか。それよりなにより実験実習には出席してるのだろうか。あれを落とすと大変なことになってしまうんだが……そんなことを考えながらヒロキは誰もいないテーブルをぼんやりと眺めていた。

 しかし彼は気付いていなかった、こうして彼が様子をうかがいに来るたびそこが空席であることに。そしてなぜそうであるかということに。

 二人の場所、誰が言うともなくいつしかその席はそう呼ばれるようになっていた。そんな噂は常連たちの間であっと言う間に広まって、今では彼ら二人が居ようが居まいがほぼ終日空席となっているのだった。


 今日も無駄足だったか。そう思って帰ろうとしたそのときだった、ヒロキは背中に軽い衝撃を感じた。何事かと振り返るとそこには右手を顔の脇に上げた可憐が立っていた。あの衝撃はおなじみの手刀によるものだったのだろう、可憐は微笑みながら上げた右手の手のひらをこちらに向けてあいさつ代わりに軽く振って見せた。


「太田クン、元気してた?」


 すっかり意表を突かれたヒロキだったが、その顔は彼の意思に反して思いっきりほころんでいたことだろう。しかしそれを悟られまいと慌てて平静を取り繕いながらヒロキは可憐に向かって答えた。


神子薗みこぞの、どうしてたんだよ。ちょっと心配してたんだ」

「大学には来てたわよ。確かにあの翌日だけはお休みしたけどね、一気に疲れが出ちゃったし。でも次の日からはしっかり社会復帰したわ。だって実験や専門科目はそうそう休めないもの」


 その言葉通りさっきまで実験実習だったのだろう、可憐はめずらしく白衣を羽織っていた。


「白衣……初めてだな、神子薗が白衣なんて。まさに理系女子リケジョって感じだな」

「なに言ってるのよ、私だって太田クンと同じ化学科じゃないの」


 可憐は肩から下げたトートバッグを今日も空いているいつもの席に置くと着ている白衣を脱いで代わりに淡いピンクのサマーカーディガンを取り出した。

 ノースリーブから伸びる細く白い腕に視線を奪われるヒロキ、しかしそれはすぐに薄手の布に包まれてしまった。そして可憐は袖口を直しながらバッグを置いた隣の席に座って続けた。


「ここ数日はちょうど実験と課題が重なって、実習室からそのまま図書館に直行の毎日だったのよ。まさかここで文献広げてってわけにもいかなかったし」

「そうか、それでここにはいなかったのか」

「ひょっとして太田クン、毎日ここに来てチェックしてたの?」

「い、いや、そういうわけでは……ゼミのついでとか……」

「ふふ、でもなんかホッとした顔してる」


 可憐はいたずらっぽい笑みを浮かべながらヒロキの顔を見上げた。ヒロキは照れを隠すように背を向けて自販機の前に立つと、いつものようにブラックコーヒーを両手に戻って来た。


「ありがとう、ちょうどコーヒーが飲みたいな、なんて思ってたのよ」


 可憐はカップにフゥフゥと息を吹きかけながらまだ熱いコーヒーを口にすると、やけに長いため息をついた。


「それにしても今日の実験はバタバタだったわ。だって実験のための器具まで自作しなきゃだったのよ。前半はみんなしてひたすらガラス細工だったわ」

「ハハハ、そのうちコツがつかめるようになるって。オレなんか実験よりも器具製作の方が楽しかったよ。隣のチームの分まで作ってやったもんさ」

「こっちはもうヘトヘト。今度OBのふりでもして応援に来て欲しいものだわ」

「でもとにかくよかったよ、神子薗が無事で」

「太田クンこそ、ほんとに災難だったわよね」

「さすがにあの晩は部屋に帰るなり爆睡だったけど、でもこうして大学に来てるしゼミにも出席してるし、オレも社会復帰はできてるつもりだよ。ただなぁ、スマホがないと何かと不便だよ、マジで。就活のアポも取れないしさ。とにかくバイトでもして早いとこスマホを買わなくちゃ、なんだ」

「そうね、私も太田クンと連絡が取れないのは不便だし、なんとかしなきゃよね」


 ヒロキにとってこんなに肩の力が抜けた会話は久しぶりだった。それが異性とであることも新鮮だったし、なによりその相手が可憐である。思えば彼女と出会ってからこんな気持ちで会話するのは初めてかも知れない。ヒロキはこのひとときにこれまでにない気分の高まりを感じるのだった。



「ところで太田クン、あれからよもぎちゃんとは会話できたの?」


 可憐はコーヒーを飲みながらそう尋ねたが、その問いにヒロキは力なく首を横に振るだけだった。


「あれから全然出てこないんだ、何度か呼びかけたんだけどな。気配は感じるからいることはいるんだろうけど」

「そう……やっぱりシロと何かあったのかしら」


 そのときヒロキは可憐の胸元の変化に気付いた。


「そういえば神子薗みこぞの、いつもの木珠もくじゅのネックレス、今日はしてないけど、どうしたんだ? あれはシロの依り代みたいなものだろ」


 可憐は照れ臭そうに微笑むと胸元に下がる勾玉を指でつまみ上げて見せた。


「代わりにこれ」

「そこにシロがいるのか?」


 ヒロキの問いに可憐もヒロキがそうしたように力なく首を横に振った。


「シロは……シロは帰ったわ」


 シロが帰った?

 ヒロキが可憐にその理由を尋ねようとしたそのときだった、カフェテリアのサービスカウンターからスーツ姿の青年がコーヒーカップ片手に声を上げながらやって来た。


「よ――よ――ヒロキ、元気してるか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る