第74話 紅き勾玉

「可憐よ、もうわれの庇護は必要なかろう。お前はもうひとりぼっちではないのだから」


 可憐の涙は止まることがなかったが、あらがいようのないこの状況に対してせめて明るく振舞おうと努めた。


「そっか、そうだよね、シロにはシロの使命があるし、それに私ももう二十歳はたちだしね」


 可憐の目に映るシロの姿が涙でにじむ。可憐は平静を装っているつもりだったがやはりその声は悲しみに震えていた。


「シロ、今までありがとう。ほんとうに、ほんとうにありがとう……シロ……シロ」


 可憐は感極まって両手で顔を覆い声を殺してむせび泣いた。シロは可憐にさらに近づくとその頭を撫でて言った。


「可憐、おもてを上げよ」


 可憐はシロに言われるがまま涙をぬぐいながら顔を上げた。


「さあ、手をこちらに」


 可憐が恐る恐る右手を差し出すとシロはその手をやさしく導いて、手のひらの上に真紅の勾玉まがたまを置いた。


「可憐、お前にこれを授けよう」


 可憐は手の上に置かれた勾玉を親指と人差し指で摘み上げると目の前にかざしてみた。夕陽を受けたそれはシロの瞳と同じく澄み渡る真紅の光を放っていた。


「それをわれの身代わりと思え。そいつに何か力があるわけではない。可憐、お前の心の拠り所として持ってるがよい」


 可憐は気丈に笑顔を作ってシロに応えた。


「これをシロがいてくれた証として、シロのことを忘れないように、ずっとずっと大切にするわ。シロ、ありがとう」


 シロは愛おしそうに可憐の頭を撫でるとその首に下がる木珠を手に取った。するとそれはまばゆい光に包まれて、次の瞬間には可憐の首から消えていた。可憐はいよいよ最後の時が来たことを察した。

 シロは稲荷堂の前まで下がるとその場で念じるように目を閉じる。すると全身が白く輝き、光が消えたときには四本の尾を持つ白狐の姿に戻っていた。その光景を目にした可憐の脳裏に自分がまだ幼いころに初めて出会ったあの頃がフラッシュバックした。

 シロと可憐はしばし互いを見つめ合った。やがてシロの身体からだが再び白い光に包まれてゆっくりと浮き上がる。


「可憐、これまで世話になった。達者に真っ直ぐに生きよ」

「シロ、さようなら、シロ」


 可憐がそう応えるとシロの全身はより一層眩しい光に包まれた。それはほんの一瞬のこと、光が消え去ったそこはあの稲荷堂の前ではなく仄暗ほのぐらく静かな可憐の部屋だった。

 可憐は手の中に残る勾玉を見つめる。すると途端にこれまで抑えていた感情が溢れ出してきた。可憐は泣いた。ただひたすら泣くしかなかった。



 深夜、部屋から漏れる娘の泣き声を聞きつけた母親は部屋のドアをノックした。しかし返事はなく聞こえてくるのは可憐の押し殺したような泣き声だけだった。母親はそっとドアを開けるとベッドに座ったまま泣き続ける可憐の前に立った。


「ママ……」


 可憐は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。


「ママ……シロが、シロが帰っちゃった」


 可憐の母親は可憐の隣に腰掛けてその肩をやさしく抱いた。


「可憐、シロにちゃんとお礼は言った?」


 可憐は小さく頷いた。


「ママもシロにお礼を言わなくちゃね、ここまで可憐を守ってくれてありがとうって。きっとシロはあなたが大人になったって認めてくれたのね」


 母親もまたシロがそうしたように可憐の頭をやさしく撫でた。


「可憐、たくさん、たくさんお泣きなさい。そして泣いた後にはシロへの感謝の気持ちをあなたの心にしっかりと刻んでおきなさい」


 二人はしばらくの間、無言のまま寄り添ってベッドに座っていた。そして可憐の心が落ち着いてきたことを察した母親は可憐の前に膝をついて座り、幼い子どもに言い聞かせるように可憐の肩に手を置いて微笑みかけた。


「あなたったら帰ってくるなり何も言わずに寝ちゃうんだもん。そろそろお腹が空いてきてるんじゃない?」


 母親はゆっくりと立ち上がるとドアの前で可憐を振り返る。


「今日はポトフを作ったのよ。粒マスタードと合わせると最高なの。これから温めてあげるから、少し食べるといいわ。さ、いつまでもめそめそしてたらシロに笑われちゃうわよ。ママ、先に行くからあなたも落ち着いたら来なさい」


 母親はにこやかにそう言って可憐の部屋を出て行った。ひとり残った可憐は手に握った勾玉をもう一度見つめる。


「シロ、私はもうひとりじゃないんだよね」


 可憐は最後の涙をぬぐって立ち上がると勾玉をデスクの上に置いて部屋を出る。ドアを閉めようともう一度振り返ると、そこでは暗いモノトーンの中でシロの勾玉だけが深く紅い光を放っていた。

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