第四章 幽霊調査

第72話 可憐のユメ

 可憐が帰宅して玄関先にたどり着いたのは午後八時を少し回った頃だった。


「ただいま……」


 力なく発せられる可憐の声、リビングにつながるドアの向こうから「おかえりなさい」と母親の声が聞こえた。しかし可憐はその声に応ずることなく自室のドアを開けると照明も点けずにベッドの上に倒れこんだ。すっかり疲れた身体からだを無理やりよじって仰向けになると、外からの光がほのかに照らす天井をぼんやりと見つめながら今日一日のことを思い返してみた。


 朝の待ち合わせからハーレム男との乱闘騒ぎ、悪夢のような闇の世界での出来事とおぞましい九尾きゅうびの姿、そして可憐が振り返る場面には必ずヒロキの姿があった。

 ヒロキの手から伝わる彼の目を通したシロの姿、それは自分が知らなかった姿、自分が知るシロは実はほんの一部分に過ぎなかったのだ。それを実感してしまった可憐はシロとの冒険譚ぼうけんたんを記憶として得てはいるものの自分自身がそれを実体験できなかったことに寂しさを感じるのだった。

 可憐は再び寝返りを打つ。視線の向こうに見えるカーテンの隙間からわずかに覗く夜空を見るともなしに見つめているうちに徐々に身体からだも瞼も重くなってきた。

 まどろむ可憐の脳裏にはヒロキの姿があった。可憐が細工した勾玉まがたまを嬉しそうに手にする様、互いに言葉を交わさずとも共有できた安穏のひととき、可憐は繰り返し浮かぶ彼の姿を顧みながら自然と深い眠りに堕ちて行くのだった。



 今、可憐の目の前には土と岩と少しばかりの潅木かんぼくがぽつぽつと生えるせた荒地が広がっていた。周囲では喧騒や怒声が飛び交っていたが、やがてその内容がはっきりと聞き取れるようになってくると可憐は自分が置かれている状況がようやっと理解できてきた。どうやらそこは古代の戦場、可憐が立つ荒地の向こに茂る低木のその先に十数人の集団と大きな黒い影が見えた。

 緊張感に満ちた周囲の騒がしさの中で自分だけが冷めた気持ちで傍観している。自分はこの世界の住人ではないのだ、今は明晰夢めいせきむでも見ているのだろう、可憐はそう考えていた。


「シロと九尾のときは懐古趣味な剣劇、私の場合は古代の戦場だなんてまるでファンタジーだわ」


 可憐は肩をすくめてひとりつぶやいた。そんな彼女の耳に自分を諫めるような、しかしどこか懐かしさを感じる声が飛び込んできた。


「ボヤッとするな。オレがヤツの気を引く、可憐はそこから援護してくれ!」


 可憐にそう呼びかけたのはヒロキだった。彼はまるでゲームに登場する勇者だか戦士だかような出で立ちで右手には剣を左腕には小型の盾を構えていた。可憐はあっけに取られながらもあらためて自分の姿を見る。麻布あさぬののシンプルなワンピースに革紐で膝まで縛り上げた履物、ベルトもまた革製で腰には鞘に納められた短剣が下がっていた。背には数本の矢を収めた矢筒を背負い左手には弓が握られていた。


「何なの、これ……それに太田クンも、私のことを名前で呼ぶなんて」


 可憐の戸惑いをよそに男たちの怒声が響き渡る。ヒロキを含む十数名が目の前の巨大な魔物を陽動せんと攻撃していた。先ほど可憐の目に映った黒い大きな影はこの魔物だったのだ。巨大とは言え、しかしその身の丈は数メートル程で大人数で力を合わせれば撃退できそうだった。


「弓兵。今だ、撃て、撃て!」


 群がる戦士たちに気を取られている魔物を目がけて弓兵たちが一斉に矢を浴びせまくる。可憐もそれにならって見よう見真似で矢を放った。可憐にとって弓矢を使うなんて初めての経験だったが、まるで身体からだがそれを覚えているかのように自然に矢を射ることができた。

 魔物の胸や腹に矢が突き刺さり巨体の動きが鈍る。魔物は怒りに全身を震わせながら可憐たち弓兵を睨みつける。そのとき可憐が放った矢がその左目を射抜いた。魔物は咆哮ほうこうを上げながら矢の刺さった目を片手で覆い、もう一方の腕を滅多やたらに振り回す。


「撃ち方やめ――い!」


 その号令と同時に陽動に回っていた兵士たちが一斉に魔物に襲いかかった。何人かが魔物のアキレス腱を狙って何度も斬りつけると、ついに魔物は両足首から激しく血しぶきを上げながらひざまづいた。

 ヒロキを含む数人の兵士はここぞとばかりに駆け寄ると弱ってうずくまるその肩に飛び乗って一斉にその首を狙う。いっしょになって駆け上がったヒロキも柔らかそうな魔物の後頭部に剣を突き立てた。

 その一撃が勝負を決めた、魔物は首から血しぶきを噴き上げながら乾いた地面に突っ伏した。歓声とともに全員が土ぼこりにまみれた魔物を取り囲む。急所を突いてとどめを刺したヒロキに兵士たちがエールを送る。その人垣をかき分けてヒロキは可憐の前にやってきた。


「ヒロキ、見事だったわ」


 可憐は意識することなくごくごく自然にヒロキを名前で呼んでいた。


「可憐の一撃が命中したおかげさ。今日のお手柄は可憐だぜ」


 周囲はヒロキと可憐を拍手と歓声で称えた。ヒロキは可憐をやさしく抱きしめ、可憐もヒロキにその身を委ねた。そしてそっと目を閉じてヒロキの身体からだから伝わる鼓動に耳を傾けた。



 満ち足りた気持ちとともに可憐が目を開けたとき、そこに広がる光景は古戦場ではなく見慣れたいつもの天井だった。


「私、寝ちゃったのね。まったく、なんて夢だったんだろう。まるで異世界ファンタジーだったわ」


 可憐は夢の中でヒロキを「ヒロキ」と呼んでいたこと、ヒロキも自分を「可憐」と呼んでいたことを思い返した。


「ヒロキ……か……」


 可憐はその名をつぶやいてみたが夢の中でも現実でもヒロキを名前で呼ぶことに違和感を感じることはなかった。

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