第71話 みかん色の安穏
ヒロキが玄関ドアの前に立って呼び鈴のボタンを押したのは夕方五時にならんとする頃だった。無事に帰宅したヒロキを可憐とよもぎが出迎える。ヒロキは初めて目にする二人が並ぶ光景に驚きを隠せずにいた。
「おかえりなさい。そしてお疲れさま。
「頭は打ってないみたいだし脳波も異常なし。あいつに殴られたところがちょっと腫れた程度でさ、鎮静剤と痛み止めの処方だけで済んだよ……って、あれ?」
ヒロキは可憐の隣に立つよもぎをまじまじと眺める。
「よもぎ、オレがいないのにどうして実体化できてるんだ?」
「それがそれが、シロさんが護ってくれてるんです。だから大丈夫なんです。それよりヒロキさん、よもぎ、何てお礼を言っていいのか……本当に、本当にありがとうございました」
「しかしよもぎも大活躍だったよな。よもぎこそお疲れさん。それにしてもあそこから無事に生還できたことが奇跡だよ。
「太田クン、立ってないで上がってよ。ここは太田クンの部屋なんだから」
ヒロキは可憐に促されるようにして部屋に上がるといつもの定位置に座って、搬送されてからのことを可憐とよもぎの二人に話した。
「順番待ちのお客さんとか店員さんからの証言もあって、被害者ってことが証明されたからオレは一切不問。でもスマホは押収されたまま当分返ってこないし、ハーレム男からの弁償は期待できそうにないし、なによりあんなヤツとは二度と顔なんて合わせたくないしな、だから自腹でなんとかしなきゃだよ」
ヒロキはよもぎが入れてくれた紅茶を一口すすると再び話を続けた。
「そんなわけでハーレム男の件はとりあえず解決したけど、目下の課題はスマホの調達だよ。スマホなしじゃ就活もままならないし」
そう言ってヒロキは紅茶をもう一口、そのタイミングを見計らって可憐はヒロキの
それはまるで見違えるようだった。ダークブラウンの革紐で凝った結び方がされた勾玉はその穴に通された革紐が幾重かに巻かれていてそれが補強とともに装飾にもなっていた。そして紐の両端には首の後ろで長さを調節できるような結索が施されていた。
「すごいなぁ、これ、
「私、小さい頃から玉とか石とか結構好きで色々と加工したりしてたのよ。この結び方は
可憐は少しばかり照れくさそうに顔を赤らめながら続けた。
「駅から帰る途中に手芸店を見つけたの。気になって覗いてみたらおあつらえ向きの革紐があるじゃない。あまりにもタイミングが良すぎて、きっとシロかよもぎちゃんに誘導されたのかもね」
「そんなそんな、可憐ちゃん、よもぎにそんな超能力なんてないですよぉ。それよりヒロキさん、見てくださいこれ。可憐ちゃんがよもぎにも同じのを作ってくれたんですよ」
そう言ってよもぎも自分の首から下げた勾玉を嬉しそうに挙げて見せた。よもぎの胸の上で金色の光を放つ玉を見たヒロキはその見事さに感銘を受けて胸が一杯になっていた。
「
ヒロキはちゃぶ台に両手をついて可憐に向かって頭を下げた。可憐はよもぎとヒロキにさっそく勾玉を試してみるよう促した。
「よもぎちゃん、せっかくだから太田クンの勾玉を使ってみたらどうかしら。太田クン、それを首にかけてくれるかな」
ヒロキは勾玉を胸に下げると首の後ろの結び目で長さを調節した。ヒロキの勾玉が胸の前で鈍く光る。
「よし、よもぎ、いいぞ」
ヒロキがそう言うとよもぎはヒロキの首に下がる勾玉へと消えた。同時に勾玉がうっすらと銀色に輝いてヒロキの頭の中によもぎの声が響いた。
「ヒロキさん、ヒロキさん。これ、とっても快適です。ここにいるとすごく落ち着くんです。よもぎ、なんだか眠くなってきちゃいました」
ヒロキは可憐によもぎの言葉を伝えた。
「どうやら気に入ったみたいだ。気持ちよくって眠たくなったってさ」
「そうね、今日は色々あり過ぎたもの。よもぎちゃんも疲れちゃったでしょ」
「ヒロキさん……よもぎ、今日は休ませてもらいます」
「ああ、わかった。ゆっくり休め」
ヒロキの頭の中からよもぎの気配が消えた。ヒロキが可憐によもぎが眠りについたことを知らせると、可憐はよもぎの前では遠慮して話さなかったことをヒロキに話し始めた。
「今日はシロがここに
可憐は部屋の片隅、ヒロキのPCデスクのあたりを指差して言った。そしてさらに話を続けた。
「それでよもぎちゃんに聞いたんだけど、九尾のあの空間から脱出した後に一旦シロの保護下に入ったらしくて、そこでシロと色々話をしたみたいよ」
「そっか……それで、よもぎはシロとどんな話を?」
可憐は紅茶を口にしながら声を潜める。
「それが……話してくれないのよ」
「おいおい、なんだよ、そのもったいつけ方は」
「だって、しょうがないじゃない、話してくれないんだもの。私だって無理に問い詰めるわけにもいかなくて」
「そうか……さっきの見た感じだといつものよもぎって感じだったんだけどな」
「とにかく今日はいろんなことがあり過ぎたし、明日になればいつものようにいろいろと話してくれるかも知れないわね」
「そうだな。とにかく今日はオレも少し頭を空っぽにしていたい気分だよ」
ヒロキは胸に下がる勾玉を手にしながらそこに眠るよもぎを思い浮かべた。
「それはそうと、シロにもお礼を言わないといけないな。とにかく最初から最後までシロの世話になりっ放しだったよ。そうだ、また鍋でも囲めば会えるかな、シロに」
ヒロキは同意を求めるように問いかけたが可憐は左右に軽く首を振って答えた。
「さあどうかしら。それは私たちの心の持ちようによるかもね」
初夏の夕方、柔らかな日差しが街に並ぶ建物の外壁を照らす。反射する光がヒロキの部屋に射しこんで家具や壁を淡いみかん色に染める。静寂の中、遠くに聞こえるのは母親を呼ぶ子供の声や行き交うバイクの排気音、それはありきたりな夕方の情景だったがその普通さが二人にとっては妙に懐かしく感じられた。
それはまさに長きに及んだ緊張からの開放だったのだろう、そんな気分を実感しながら二人はしばらくの間、冷めかけた紅茶を前にして何するともなくただただぼんやりとこの安穏な空気に身をまかせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます