第59話 死地へのいざない

 よもぎの視界は闇に覆われていた。漆黒の中に響き渡るガヤガヤとした慌ただしい喧騒に耳を傾けるも、そのざわめきは音として認識することはできるものの意味を持つ言葉として聞き取ることはできなかった。

 やがて何かに吸い上げられるように彼女の身体からだは一気に上昇していく。頭上がら吹き下ろす風圧にあらがって顔を上げるとその彼方にまばゆい光が見えた。小さな輝く点がぐんぐん大きくなって、あっという間によもぎの全身は強い光に包まれた。

 ブラックアウトからホワイトアウトへ、そのあまりの眩しさによもぎは思わず目を閉じる。すると上昇する力は徐々に落ち着き始めていつしかそれは心地よい浮遊感へと変化していった。


 よもぎはゆっくりと目を開く。すると視界に飛び込んできたのは自分を囲む雑居ビルの外壁と窓、そして眼下にはさっきまでいたパチスロ店の光景があった。


「よもぎ、なんでこんなところに?」


 これってまるで幽体離脱……ちがう、ちがう、だってよもぎは霊体だよ、幽霊なんだよ。それじゃこれは……まさか、このまま成仏とかしちゃうのかな……ヒロキさんにも可憐ちゃんにもお別れしてないのに、このまま……でもそんなのってちょっと悲しいよ。


 よもぎは初めて経験するこの不思議な感覚に戸惑いながらも足元に広がる光景に目を凝らした。宙に浮いたつま先のはるか下に広がる下界、そこではハーレム男を囲むようにして小競り合いが繰り広げられていた。


 倒れているヒロキとそのかたわらには無残に折れ曲がったスマートフォンが落ちている。勝ち誇ったようにヒロキを見下ろすハーレム男の金髪頭、ヒロキの手を握りながら男に向かって声を上げる可憐、警備員と従業員のみならず何人かのパチスロファンまでもが男を取り囲み、道を行く人たちも何事かと足を止める。その様子はまるでパノラマ模型でも見ているかのようだった。


「あっ、このままだと危ない。ヒロキさ――ん、可憐ちゃ――ん」


 よもぎは精一杯の大声で叫んでみたが、しかしその声が二人には届くことはなかった。それでもよもぎは倒れたヒロキの身を案じて祈るよう手を合わせる。するとその意思に呼応して浮遊していたよもぎの身体からだは引き寄せられるようにヒロキのすぐ側まで降りてきた。しかし彼女の存在に気付く者はいなかった、ただ一人を除いては。

 勝ち誇ったようにヒロキを見下ろすハーレム男の姿がよもぎの視界に入る。ハーレム男もよもぎの存在に気付いたのだろう、狡猾そうな目がこちらを凝視している。そしてついによもぎとハーレム男の視線が一致した。


「ダメ、見ちゃダメ!」


 よもぎがそう悟るも時すでに遅し、その身体からだはハーレム男にぐいぐいと引き寄せられていく。なんとか踏みとどまろうと踏ん張ってみるも強い力を相手にそれも叶わず声を上げるのがやっとだった。


「ヒロキさ――――ん!」


 その声が届いたのだろうか、ヒロキはうっすらと目を開くと朦朧とした顔で弱々しく手を伸ばした。しかしその腕は空をひと掻きしただけで再び力なく舗道のアスファルトの上に落ちてしまう。そしてヒロキは再び意識を失ってしまった。

 ヒロキの手を握りながら何度も何度もその名を呼ぶ可憐。その声がだんだんと遠くなるにつれてよもぎの意識も混濁していく。やがて再び視界が漆黒の闇で覆われたとき、よもぎの意識もまた失われてしまうのだった。



――*――



「よもぎさん、よもぎさん」


 自分の名を呼ぶ声でよもぎは目を覚ました。目の前には心配そうに自分を覗きこむ女性の顔、栗色のショートボブヘアが似合う彼女に肩を支えられながらよもぎはゆっくりと上半身を起こした。


「ここは……ここはどこですか?」


 周囲を取り巻く高密度な闇の中でよもぎと女性の二人だけが自ら発光しているようにその姿がはっきりと認識できていた。


「ここはご主人様の意識世界です。ご主人様がよもぎさんを受け入れてくださったのですよ」


 女性は落ち着いた口調で微笑んだ。


「よもぎはヒロキさんたちといっしょだったのに……そうだ、ヒロキさんがハーレム男に襲われて、それで可憐ちゃんも……いけない、よもぎ、戻らないと、早く戻らないと」


 狼狽うろたえるよもぎの前で女性はゆっくりと首を左右に振ると、努めて明るい口調でよもぎの言葉をさえぎった。


「ここは俗世ではありません、よもぎさんは既にご主人様の庇護下にあるのです。もう何も心配することはありません、これからはご主人様とお屋形様がおまもりくださいます。そして私たちとともにこの身を捧げつつご寵愛ちょうあいを受けるのです」


 女性は自分の言葉にすっかり心酔しているのだろう、話すたびに目は虚ろになっていく。そんな女性の一方的なひと言ひと言に理解どころか共感すらできないよもぎもまたお構いなしに彼女の言葉を遮った。


「あ、あの、お姉さん?」

「私のことは、なずなとお呼びください」

「は、はい、なずな……さん。それでなずなさんはどうしてよもぎの名前を知ってるんですか?」

「さあ、よもぎさん、お立ちになってください。肩をお貸ししましょう」


 まただ、またこの人はこちらの話を聞いていない。その態度にイラ立ちを覚えたよもぎはなずなが差し伸べた手を払って自力で立ち上がった。そんなよもぎの全身をなずなはくまなく見渡すと、今度はいきなり呆れたように溜息をついた。


「そのお召し物は俗世のものですね。お屋形様に新しいものをご用意していただきましょう」


 よもぎはヒロキと二人で池袋いけぶくろのブティックで買った赤いタータンチェック柄のミニスカートに初夏らしい軽めのトップスを合わせていた。よもぎも自分となずなを見くらべる。ラフでカジュアルな自分とは対照的になずなは少しばかり露出度は高いものの仕立てのよいフレンチスタイルのメイド服に身を包んでいた。


「なずなさんが着てるそれって、メイドさんですよね」

「ええ、これはご主人様からのご命令でありご希望でもあるんです」

「それ、ちょっとカワイイかも……もしかしてよもぎもここではメイドさんの服を着るんですか?」

「お気に召されたようでなによりです。もちろん後ほど同じものをお召しいただきますので」


 なずなは小首を傾げて小さく会釈すると背後の暗闇に右腕を差し向けた。するとそれを合図に次々と燭台が現れてそれぞれに蝋燭の明かりが灯った。燭台の高さはよもぎの背丈よりも少し高く頭の上からほんのりと床を照らしていた。そしてその明かりの連なりは夜道の街路灯のように女性が指し示す遥か向こうまで続いていた。


「では参りましょう」


 なずなはよもぎを先導するように燭台の列に沿って歩きだす。二、三歩を進むと今一度振り返って躊躇するよもぎに歩き出すよう促す。なずなは柔和にゅうわに微笑んでいるが有無を言わせぬその雰囲気にすっかり呑まれてしまったよもぎはあらがうことすらできずにただ彼女の後について行くしかなかった。

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