第58話 ミッドナイト・ランディング

「太田クン、太田クン、しっかりして!」


 可憐かれんは倒れたヒロキに駆け寄るとその手を握りながら何度も何度も呼びかけた。体勢を立て直した警備員と従業員が身構えると、整理券を手にして開店を待つ客たちもまた一緒になってハーレム男を取り囲んだ。


「おい、警察を、いや救急車が先か」


 誰ともなく上げる声などものともせず、ハーレム男の顔には恍惚の笑みが浮かんでいた。


「へ、へへ、やっと手に入れたぜ、へへへ」

「いったい何なのよ、このハーレム男!」


 可憐が男に向かって吐き捨てるようにそう言うと、その瞬間、男の目が獲物を狙うような鋭い眼光に変わる。


「おい、今、ハーレムって言ったよな。そう言えば昨日も……そうかぁ、おまえは見えるヤツなんだっけ。ならばなおのこと見逃すわけにはいかねぇなぁ」


 ハーレム男は可憐に歩み寄るとその肩に掴みかかろうと腕を伸ばした。


「おい、いい加減にしろ!」


 可憐を守ろうと警備員と従業員が声を上げたそのときだった、突然にハーレム男の両膝がガクガクと笑い出した。呼吸は不規則で荒くなり、その場に膝を付くと同時に白目を剥いてその全身を小刻みに震わせた。

 だらしなく開いたその口元からは声にならない声とともによだれが流れ出す。ハーレム男の尋常ではない変わりように慌てた従業員が装着しているインカムで早口に二言三言告げると装備する無線機に手を伸ばして緊急通報のボタンを押した。

 可憐はヒロキの手を握り続けた。彼女の手に脈打つ鼓動が伝わって来る。ヒロキの無事を祈って目を閉じたそのとき、可憐の脳裏に不思議な光景が流れ込んできた。

 暗闇の中に一定のリズムで上下に揺れるシロの頭と尖った耳だけが映っている。それはシロの背にしがみつくヒロキの目を通したリアルタイムの映像であることを可憐はすぐに理解した。


「シロ、シロ、お願い、太田クンとよもぎちゃんを守って、お願い」


 可憐はヒロキの手を握りながらシロに向かって懇願する。彼女の瞼の裏ではシロが闇の中を遥か遠くに見える光を目指して疾走していた。目の前の景色にオーバーラップして映るそれは、まるで自分自身が体験しているかのようなリアルさで彼女の脳に直接に伝わって来るのだった。



――*――



「ヒロキ殿! ヒロキ殿!」


 その声でヒロキは我に返る。そこは上も下も周囲のすべてが漆黒の空間、その中に大きな狐の姿のシロがいた。シロの全身は白く輝き背後では四本の太い尾がゆらりゆらりと揺れていた。


「シロ……か……てか、どうしたんだよオレ……そうだ神子薗みこぞの、神子薗は無事なのか?」

「ヒロキ殿、其方そなたはよくやった、よく頑張った。ここからはわれに任せよ」

「任せよって……ここはいったい……」


 ヒロキは状況を把握できずにキョロキョロと困惑するばかりだった。ついに業を煮やしたシロは「すまぬ!」の一言とともにヒロキの後ろ襟を咥えると後方に振り回して自分の背に乗せた。


「ここは其方そなたの意識の中だ。これから彼奴きゃつ、其方がハーレム男と呼ぶあの男の中に向かうぞ。今はわれがあの男の動きを止めておるがそう長くは保てぬ。時間がない、さあ、しっかりと掴まっておれ!」


 そう言うとシロはヒロキを背にして走り出した。速度が増すたびにシロの身体からだが上昇していく。目の前に広がるのは暗闇だけだったが顔に当たる風の強さからかなりのスピードであることがわかる。その風圧で振り落とされないようにとシロの背を掴むヒロキの手にも自ずと力が入った。


「シロ、オレにもわかるように説明してくれよ。いったい何か起きてるんだ」


 しかしシロがヒロキの問いに答えることはなかった。無言の意味に何かを察したヒロキもそれ以上シロに問うのをやめた。二人はぐんぐん上昇して速度はなおも上がっていく。


「さあ行くぞ、ヒロキ殿。気をしっかりと保つのだ」


 ヒロキの顔に当たる風が痛いほどに強くなる。やがて息をするのも苦しくなり、ヒロキは風圧をまともに喰らわないよう顔を下に向けた。こうして加速と重力にあらがってはいたものの、やがてヒロキの意識はゆっくりと薄れていくのだった。



 ヒロキが我に返ったとき、シロの走る速度はすっかり安定していた。しかし相変わらず周囲は闇一色だった。


「シロ、今、オレたちはどこにいるんだ?」

「ここはあの男の意識の中である」

「あの男って……ハーレム男の? だってここって、こんなに広いのに……それにこの展開って、オレは幽体離脱でもしてるのか?」

「ヒロキ殿は意識体となってわれとともにここに来ている。そしてここはあの男にいている黒幕が作り上げた世界なのだ。」

「黒幕って……そうか、神子薗みこぞのが言ってたっけ、何か黒いものがいたって。それでその黒幕の正体は……」

「おそらく、われと同じようなものであろう。それよりヒロキ殿、あれを見よ。あれこそがわれらが目指さんとするところだ」


 シロが向かうその先には暗闇の中に揺れる明かりの連なりが見えた。それはまるで真夜中の滑走路に灯る誘導灯のようだった。


「あそこに降りるのか。まるでジェット機の着陸みたいだな」

「それはいい例えであるな。ヒロキ殿、さあ、降りるぞ、われが背にしかと掴まっておれ」


 シロの身体からだが明かりの列に向かって滑らかに下降していく。そしてヒロキはシロの背中にしがみつきながら握るその手に力をこめて闇の中への着陸に備えるのだった。

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