第57話 強襲

 午前八時、可憐かれんを乗せた路線バスは大きなフロントガラスに初夏の日差しを反射させながら定刻通りに到着した。エアーを吐き出す音とともに開いた降車扉から次々降りて来る乗客たちの一番最後に立つ可憐、その姿を見たヒロキはすらりと伸びた彼女の脚に目を奪われた。


「み、神子薗みこぞの、君はこれからジムにでも行くのか?」


 両サイドに白いラインの入ったスリムな黒いスキニーパンツと揃いの黒いスニーカー、白いシャツの上に羽織ったスウェット地のパーカーというコーディネートは今まさにランニングでも始めるかのような出で立ちだった。可憐の首からはいつものようにシロのしろである木珠もくじゅのネックレスが下がっていたが、それも不思議とそのスタイルに違和感なく溶け込んでいた。


「昨日の今日だし。咄嗟の場合に備えて動きやすい服装にしてみたのよ」

「そうか。オレはまた神子薗は現場まで走って行くのかと思ったよ」

「ねえ、太田クン、ちょっと」


 可憐は耳打ちする素振りを見せる。ヒロキがそれに応えるように腰を屈めたその瞬間、彼の頭上に可憐の手刀しゅとうが振り下ろされた。


「イテッ。久々に、イテッ!」


 ヒロキは頭をさすりながら笑顔で返した。


「今朝はいつもの神子薗に戻ってるみたいだな。よし、行こうか」


 ヒロキは目的地であるパチスロ専門店を目指して歩き始めた。


「太田クン、よもぎちゃんはスマホの中かしら?」

「ああ。何が起きるかわからないからな、よもぎはここで待機だ」


 ヒロキはジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、待ち受け画面を可憐に見せた。画面の中ではよもぎが悪戯っぽく敬礼のポーズをとっていた。可憐は画面のよもぎに微笑みかけながら前を行くヒロキの手を掴む。するとよもぎの明るい声が可憐の中に響いた。


「可憐ちゃん、おはようです! いいなぁ、可憐ちゃんのそのコーデ。よもぎも真似したいからあとでちゃんと見せてくださいね」



 駅に向かう人の流れと逆方向に人波を避けながらヒロキと可憐はバス通りの歩道を進む。二人はただ前だけを見つめて黙々と歩き続けた。やがて二人が到着した店の前には既に客の列ができていた。それが通行の妨げにならぬようにと黒服の従業員と制服姿の警備員が並んで両手を広げている。


「開店までまだ二時間もあるのにもうこんなに並んでるんだな」


 ヒロキと可憐は並ぶ客たちをざっと見渡してみたが、そこにあの特徴的なひょろ長い金髪頭は見つけられなかった。可憐もまたハーレム男に警戒しながらも初めて目にする街並みを警戒しながら観察していた。

 そんな可憐にヒロキは道路を挟んで斜向かいに見えるオレンジ色が目立つ看板の店を指差して言った。


「あそこに見えるオレンジ色の看板が見えるだろ。あれはベーカリー、あの角を曲がってすぐにたばこ屋があるんだ。そこがこの間オレがあいつとニアミスした場所だ」


 ヒロキが指差す先ではちょうど交差点の信号が青に変わって駅に向かう通勤ラッシュの人々が行き交っていた。


「そうだ、あのときも朝だったんだ。もしかするとあいつ、今日もあそこで一服してるかもしれない。よし、オレはあの交差点を見張ることにするよ」

「それなら私は反対側を」


 こうして二人はパチスロ店に背にしてハーレム男の襲撃を警戒していた。


 開店を待つ客の列が三重のつづら折りになり始めたそのとき、ヒロキはいきなり背後から襟首を掴まれて引き倒されそうになった。よろけながらも無理やり身体からだを捻って背後に目を向けると、そこにはできればお目にかかりたくないあの金髪頭があった。ヒロキはすぐさま自分を掴むその腕を振り払おうとする、しかしもう一方の腕が素早く彼の首にはまってまさに羽交はがめの体勢となった。


「へへへ、そ――ら、捕まえたぜ。手間ぁかけさせやがって」


 男は勝ち誇ったように薄ら笑いを浮かべながらヒロキの首を固める。そしてもう一方の手を素早くヒロキが着る上着のポケットに差し込んだ。


「ほ――ら、あったあった。ヘヘ、チョロいもんだぜ」


 男はヒロキのスマートフォンを奪い取るとすぐさま彼の背中を突き飛ばした。ヒロキはかろうじて体勢を立て直すと声を荒げて叫んだ。


「ふざけんなテメエ! 返せ、返せよ!」


 ハーレム男はヒロキが声を上げるたび彼をからかうように手にしたスマートフォンを高く掲げて見せる。


「ほ――ら、ほら、これが欲しいのかなぁ?」

「誰か、誰かそいつを止めて! あのスマホを取り返して!」


 異変に気付いた可憐も大声で周囲に助けを求める。するとただならぬその様子を察した警備員がハーレム男に駆け寄る。


「オラ――っ、こっちに来るんじゃねえ!」


 ハーレム男は周囲を威嚇すると空いたもう片方の手を広げて警備員の方に向けた。するとその瞬間、警備員は弾き飛ばされたようにその場に尻餅をついた。歩道に並んで整理券の配布を待つ客たちもその様子にざわめき立った。


「おい、出せよ、あのよもぎとか言う小娘をよ!」


 ハーレム男はヒロキに強く命じる。しかしヒロキはそれに応えることなく、身構えたまま男からスマートフォンを取り返すタイミングを計っていた。


「ふん、まあいいか」


 ハーレム男は掲げていたスマートフォンをゆっくり下ろすと何も表示されていない液晶画面を見ながら不適な笑みを浮かべた。


「へっ、面倒臭え、こんなもん。こうすれば瞬殺しゅんさつだべ」


 ハーレム男はニヤつきながらヒロキのスマートフォンを歩道と車道の境界にある縁石に立てかけると、一転して冷淡な顔になって靴のかかとに力を込めてそれを踏みつけた。

 パキッと乾いた音、ヒロキの目の前で彼のスマートフォンは「くの字」に歪んで画面にもひび割れが走った。


「そら、もう一丁、そら、ほら出て来いよ、ほら!」


 男は何度も何度もヒロキのスマートフォンを踏みつける。やがてそれはくの字から九〇度となり、ついには完全に破壊されてしまった。

 ヒロキは全身の震えが止まらなかった。震えの半分は恐怖心からだったが、それよりもハーレム男への怒りと太刀打ちできなかった悔しさがそれを上回っていた。ヒロキは折れ曲がってしまったスマートフォンを取り返すため、男の脇腹に右肩でタックルした。よろめきバランスを崩すハーレム男。そのチャンスを逃すまいと、ヒロキは力を振り絞って男の顎に向けて右手の拳を打ち込む。しかし格闘経験がないヒロキのパンチは男に当たるどころかギリギリのところで届かず、男の顎のすぐ前で空を切るだけだった。

 一方、身長も腕のリーチも上回るハーレム男が同時に放ったカウンターパンチはものの見事にヒロキのこめかみを直撃した。鈍い衝撃で頭を揺さぶられるヒロキ、その瞬間、彼の視界に映る景色はゆがみ黒いノイズが断続的に視界を遮る。沈み行く景観からヒロキは今まさに自分が崩れ落ちていることを悟った。


 映像はスローモーションのようにゆっくりと流れる。視線の先には無残に折れたスマートフォンが映り、そこから半透明のよもぎが飛び出していくのが見えた。

 よもぎはヒロキに助けを求めんと腕を伸ばしながら何かを叫んでいる。しかしその声はまったく聞こえてこなかった。滲む視界に霧散していくよもぎの姿が映る。ヒロキは声にならない声でよもぎの名を叫び続けたが、しかしその声もまたよもぎに届くことはなく、彼はそのまま真っ暗な闇の中に落ちていくのだった。

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