第55話 第三種接近遭遇

 ヒロキと可憐がそろそろ二杯目のコーヒーをオーダーしようかと席を立ったそのとき、ウインドウ越しに歩道を歩くハーレム男の姿が見えた。男はヒロキたちの存在を察知して店の中を一瞥したものの、何をするわけでもなく不機嫌そうな顔で通り過ぎていった。ヒロキはスマートフォンに退避しているよもぎに呼びかける。


「よもぎ、あいつが今……」

「はい、よもぎもぞわっとしました」

「よし、行こう、神子薗みこぞの


 二人は店を出ると男が歩いて行った方向に目を向ける。すると十メートル近く先に交差点を曲がる金髪の後姿が見えた。一定の距離を保ちながら後を追うとそこはまだ開店前の飲食店街、やけに目立つ黄色い看板を掲げた雑居ビルの地下へと男の姿は消えて行った。

 ヒロキは手近な路地に身を潜めて男がビルから出てくるのを待つことにした。


「ヒロキさん、ヒロキさん、もうすぐ来ますよ」

「太田クン、私にも気配だけは感じるわ。とてもいやな気配が」


 そんな二人のかたわらでは一匹の野良猫が飲食店の勝手口で夕方の餌付けを今か今かと待っていた。


 間もなくしてハーレム男がビルの階段を上がって来た。男は二つ折りにした数枚の一万円札を無造作にブルゾンのポケットに押し込むと、お見通しだと言わんばかりにこちらを睨みつけながらゆらりゆらりとやって来た。


「おい、コソコソしてんじゃねえ! てめえらのせいで気が散ってよ、出るもんも出なくなっちまったぜ。こりゃ損失補てんしてもらわねぇとな!」


 かすれた怒声とともにハーレム男はその長身を揺らしながらヒロキと可憐に迫ってきた。上から見下ろす男から発せられる威圧感に圧倒されるヒロキの中によもぎの声が響く。


「ヒロキさん、あの感じです。すごいです」

「わかってる、目の前だもんな。オレにも敵意がビンビンに伝わってくるよ」


 ハーレム男は薄ら笑いを浮かべたままヒロキに迫る。


「なんだそりゃ、テレパシーごっこか? ま、どうでもいいけどよ、とりあえず補償しろ、補償!」


 ヒロキは可憐にもっと下がるように合図する。そして男の気を自分に向けようと睨み返した。


「とりあえずスマホに隠れてるその小娘を出せよ。それで勘弁してやるからよ」


 男はなおもヒロキに迫りながら右手を伸ばしてスマートフォンを渡せと恫喝する。


「ほら、さっさと出せよ、てめえのスマホをよ」

「太田クン、逃げて、とにかく逃げて!」


 ヒロキの背後で可憐が叫んだ。


「そいつ、四人だけじゃない、影よ、黒い影が……」

「あ――っ? なんだ、女ぁ! そうか、てめえ、見えるのか。目障りだなぁ、まずはてめえから片付けてやろうか」

「やめろ、お前の目的はオレだろ!」


 そう言ってヒロキは男の手を振り払った。


「あ――――っ、うぜえ!」


 ハーレム男は声を上げながら立ちはだかるヒロキの胸を出していた右手で突く。するとヒロキはよろめくどころか路地の反対側まで張り飛ばされてしまった。同時に彼の足元にいた野良猫も瞬時にビルの隙間に逃げ込んで身をすくめた。


「太田クン!」

神子薗みこぞのこそ、逃げろ、早く!」


 目の前のハーレム男におののきながら可憐は心の中でシロに向かって叫んだ。


「シロ、シロ、助けて!」


 しかし可憐にはシロの反応どころか気配すら感じることができなかった。


「お願い、シロ……シロ、どうして……」


 目の前にハーレム男が覆いかぶさるように迫る。可憐は動くことすらできず、男から目をそらすのが精一杯だった。


「ほら、女、よそ見してんじゃねぇよ」


 ハーレム男は可憐の腕を掴もうとする。そのとき彼女の頭の中に聞いたことのない男性の声が響いた。


ひるむな、声だ、声を出せ!」


 その声で我に返る可憐。目の前に迫る男の手。可憐は咄嗟に半歩後ろに下がって大声を張り上げた。


「いやあ――――! 誰か――――! いやあ――――!」


 突然の悲鳴に一瞬怯むハーレム男。道を行く人たちの何人かが何ごとかとこちらにやって来る。開店準備中に忙しい飲食店の勝手口からも割烹着かっぽうぎ姿の従業員が何事かと飛び出してきた。


「あっ、お前は。猫だけじゃなくて女の子まで。お――い、誰か警察を、一一〇番してくれ!」


 従業員は声を張り上げて叫んだ。野次馬となった通行人もスマートフォンを手にしてレンズをこちらに向けている。


「見世物じゃね――ぞ、こらぁ――!」


 男はドスの効いた声とともに周囲を睨み回して威嚇する。


「けっ、おもしろくねぇ! おい、いいか、おまえら、二度目はないからな。覚えておけ」


 ハーレム男はヒロキと可憐に向かって吐き捨てるようにそう言うと周囲の見物人を追い払いながら飲食店街に消えていった。



「太田クン、大丈夫?」


 可憐は尻餅をついたままのヒロキに駆け寄った。


「はは、なんか情けないなオレ。神子薗みこぞのを守るどころか……ごめん」

「そんなことより怪我はない? 立てる?」

「ああ、大丈夫だ。それにしてもなんなんだあいつ。ちょっとド突かれただけで吹っ飛ばされたよ。あれは人間ワザじゃないよ」


 散り散りになる野次馬とともにヒロキと可憐もその場を離れる。


「太田クン、シロはやっぱり出てきてくれなかった。でもその代わりに聞いたことのない男の人の声が聞こえたわ、声を出せ、って」

「でもおかげで助かったよ、神子薗、ありがとう」


 そう言いながらヒロキは可憐の手を握る。すると彼女の頭の中によもぎの声が響いた。


「可憐ちゃん、その声はさっきの猫ちゃんかも。きっとキジ丸たちが守ってくれたんですよ」

「そう言えば、太田クンが飛ばされたときに猫がいたわ、確かに」


 そして可憐は今さっき目にした光景を思い出しながら続けた。


「あの男の周りに四人の女性とまとわりつくような黒い影も見えたの。とにかく得体の知れない怖さを感じたわ。もしかするとハーレム男もあの黒いのに操られてるのかも知れない。それにあれは、とてもじゃないけど私たちの手に負えるものではない気がするわ」


 そう言って可憐はくやしそうに唇を噛んだ。


「でも、なんとかしなくちゃ……そうだ、太田クン!」


 そのとき可憐の中で何かが閃いた。


「さっきパチスロの店でポケットティッシュをもらったわよね。ちょっと見せてくれる?」


 可憐はヒロキが差し出したティッシュを受け取ると裏面の広告を指さした。


「これよ、これ。ちょっと見て」


 それは新装開店の告知だった。


「明日の朝八時三〇分から整理券配布か」

「あいつ、絶対に来ると思うわ、あの店に」

神子薗みこぞの、いいのか? さっきのオレを見ただろ。危険が伴うかも知れないんだぞ」

「怖いけど、でも衆人監視の中で事を起こすほどの馬鹿じゃないと思うわ」


 ヒロキは可憐のあまりにも積極的な態度に少しばかりの不安を感じていた。


「なあ、神子薗、君、ひょっとして誰かに誘導されてないか?」


 可憐は彼女にしてはめずらしい不敵な笑みを返す。


「誘導……そうかもね。さっきの男の声のこともあるし。でもそんなことはどうでもいいのよ。とにかく明日は最終決戦になるかも知れないわね」

「決戦って……神子薗ってそんなに武闘派だったっけ?」


 ヒロキとよもぎは声を揃えてつぶやいた。


「やっぱ、誘導されてる……」



 飲食店街の店々に明かりが灯り始め、道を行く人々がみな行きつけの店に吸い込まれていく。ヒロキと可憐は賑わい始めた界隈を肩を並べて歩く。そして建ち並ぶビルの隙間では野良猫たちがそんな二人の姿を追うようにして見つめていた。

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