第50話 キジトラの老猫
五月、大型連休を利用してヒロキと
「あ――っ、ヒロキさん、今日もいますよ猫ちゃん!」
よもぎは嬉しそうな声を上げると、ヒロキが制止する間もなく一匹の猫が佇む住宅の門前に駆け寄った。
「ちょ、待て、よもぎ!」
五メートルの距離を保つためにヒロキが慌ててよもぎの後を追う。そこはまさにヒロキが住むアパートの真正面、平屋建ての住宅に猫と二人で暮らす老婆がよもぎの姿を見て微笑んでいた。
「おやおや、お嬢ちゃんは猫が好きなのかい?」
「かわいいなぁ、かわいいなぁ」
「その子はね、もうおじいちゃんなんだよ」
よもぎがその頭を撫でるとキジトラの老猫は目を閉じて気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「可憐ちゃんもほら、かわいいですよ」
しかし可憐はよもぎの言葉に一瞬の躊躇を見せる。実は可憐は猫を撫でたことがないのだった。なにしろ撫でたくとも猫が彼女を避けるように逃げてしまうのだ。理由はシロである。猫たちはみな彼女に憑いている天狐の気配を察して逃げてしまうのだった。
「大丈夫ですよ、ほら、ゴロゴロ言ってます」
「でも……私は……」
ひとり離れて立つ可憐だったが、よもぎに身を委ねていた老猫が可憐の顔を見つめていた。そしてまるでサインを送るかのように軽く目を閉じ再び目を開けて見せる。その様子に何かを感じた可憐はゆっくりゆっくりと近づいてみた。
老猫は逃げなかった。恐る恐る伸ばす可憐の指先に鼻面を寄せてクンクンと匂いを嗅ぐ。こうして可憐は生まれて初めて猫の頭を撫でることができた。
よもぎは老いたキジトラ猫の頭を撫でながら背中、腰、尻尾の付け根のあたりまで手を伸ばす。首から尻尾へと毛並みを楽しむように滑らせていた手が背中の真ん中のあたりでピタリと止まる。そしてよもぎは潜めた声を上げた。
「ヒロキさん、可憐ちゃん」
その声にヒロキと可憐もよもぎが手を止めたあたりに目を向ける。
「もしかして、この子……」
よもぎがそうつぶやいた瞬間、彼女の手首から先だけが半透明になりキジトラ猫の
これまでもヒロキはよもぎが半透明になるのを何度も目にしてきたが部分的にそうなるのを見たのはこのときが初めてだった。
「
「ええ、見たわ。よもぎちゃんの手が猫ちゃんの中に」
それはほんの一瞬の出来事だった。すぐに老猫の
「ヒロキさん、可憐ちゃん、この猫ちゃん病気かも知れないです」
「病気って……今、よもぎの手が猫の中に吸い込まれたよな?」
「うん。なんか猫ちゃんに手を引っ張られたみたいな」
よもぎはそう言いながら猫の背中を再び撫で始めた。
「よもぎちゃん、今までにこんなことってあったかしら? 例えば太田クンが、そうねえ、肩こりなんかでもいいわ、今みたいに相手の
可憐の問いによもぎは首を左右に振る。
「こんなの初めてです。それに中から引っ張られたみたいでした」
確かに初めて目にする奇妙な現象だったが、それはさておきよもぎが言った病気の一言が気になったヒロキは傍らに立つ老婆にその言葉を伝えた。老婆はすぐさまよもぎの隣にしゃがみ込むと老猫の背を首から腰に向かって何度か撫でてみた。
「確かに毛並みがあまりよくないねぇ、パサパサしてるよ。どれ、ちょっとごめんよ、キジ丸」
老婆は老猫の首元をつまみ上げてすぐに離した。するとその皮はゆっくりと元の状態に戻っていった。
「この子は脱水症状かも知れないね。健康な猫ならつまんだ皮膚がすぐ元に戻るんだけどね、でもこの子のはそうじゃなかっただろ。これはその兆候なのさ」
「脱水症状って……具体的にはどんな病気なんですか?」
可憐は老婆に尋ねた。
「詳しくは獣医の先生に聞いてみないとだけど、この子くらいの歳だと腎臓かも知れないねぇ」
「腎臓病ですか」
「高齢の猫はね、運命みたいなもんさ。このあとすぐに地域猫のボランティアさんが来てくれるから相談してみようかね。どうもありがとうね」
老婆は老猫に「行くよ」と一声かけると踵を返して玄関に向かう。老猫はよもぎを一瞥すると尾を揺らしながら老婆の後を追って行った。
「よもぎ、疲れちゃいました」
ヒロキの部屋に戻るなりよもぎはそう言ってすぐさま半透明になる。疲れたよもぎに代わってヒロキがお茶の準備を始めた。
「ねえ、よもぎちゃん。さっきのなんだけど……」
可憐は半透明になっているよもぎに問いかける。
「それが、よもぎにもよくわからないんです」
よもぎは可憐との会話を続けるために再び実体化すると老猫との出来事を振り返った。
「あの猫ちゃんを撫でてたらだんだん悲しくなってきちゃったんです。それでこの子をなんとかしなくちゃって。そうしたらよもぎまでなんとなく息苦しくなってきて、ああこれはこの子の気持ちなのかな、どうしたらいいのかな、ってそんな気分になって……そうしたら猫ちゃんの中からグイって掴まれるみたいに」
よもぎは右手を左手で掴んで引っ張る仕草をして見せた。すると可憐が真剣な顔でそれに続けた。
「ということはあれはよもぎちゃんのではなくて、あの猫の力ね」
「なるほど、これからあの猫には注意した方がよさそうだな」
三人分の紅茶をちゃぶ台に並べながらヒロキも会話に割って入る。
「ハーレム男の次は化け猫なんて、まったく次から次へと。こんな展開、どうしたらいいんだよ」
「パッと見で悪意は感じられなかったけど、よもぎちゃんにどんな影響があるかがわからないうちは接触を避けるのが無難かもね」
「そうだな、敵の情報が揃うまではこの近所でも迂闊に実体化はしない方がいいだろうな」
三人はやけにしんみりした気分で紅茶をすする。ただひとりよもぎだけが誰に言うともなく小さな声でつぶやいた。
「でもでも、よもぎはあの猫ちゃんって悪い子じゃないと思うんです」
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