第三章 ハーレムの男

第45話 第一種接近遭遇

 朝から降り続く雨は夜になってもまだ止む気配はなかった。ヒロキは手にしたカサを広げると点滅を始めた歩行者用信号を早足で渡り、駅から徒歩で帰宅する人たちの流れに乗って歩道を進む。あの男との一件以降、木を隠すなら森の中の言葉の通りヒロキはひとりで出歩く場合はできるだけ人通りの多い道を選ぶようにしていた。


「ヒロキさん、ヒロキさん」


 商店街の角を曲がるとすぐにヒロキの頭の中によもぎの声が響く。それは少し慌てた様子だった。


「またあのいやな感じです」

「マジか、どっちだ、方向は分かるか?」


 後方には駅から出てきた十数人のまとまった人が流れて来るのが見えた。やがてそれはカサの波となって目の前を流れて行く。


「よもぎ、ちょっと怖いです。確かめようとするとこちらの場所を知らせてしまうようで」


 ヒロキはかたわらの自動販売機に身を寄せて周囲に気をつけてみたが、少なくとも今ここから見える範囲にはあのひょろ長い金髪の姿は確認できなかった。


「ヒロキさん、ヒロキさん。やっぱり駅の方に戻りましょう。ちょっと遠回りだけど駅向こうのバス通りに出て帰りませんか?」

「そうだな、確かによもぎの言う通りだ。よし、引き返そう」


 ヒロキは待ち受け画面で怯えた顔のよもぎにそう言うと、今一度周囲を確認してから駅に向かって歩き出した。すると再びよもぎの声が響く。


「ヒロキさん、あの感じが消えました。今、消えましたよ」


 スマートフォンの中のよもぎは安堵の表情を浮かべていた。ヒロキは左腕のウォッチで時刻を確認する。午後八時四〇分、まだ人通りが多い時間帯だが単独であの男との接触するのは避けたい。


「そうか。でもここいらにあいつがいることは確実だ、今日はこのままバス通りを回って帰るよ」


 ヒロキは雨の中を駅前まで引き返すとバスターミナルとロータリーを右手に見ながら高架線のガードをくぐって遠回りな帰路を歩いた。



 深夜まで降り続いた雨は明け方にはすっかり上がりヒロキが部屋を出た午前九時にはあの雨が嘘だったように晴れ渡っていた。濡れた路面に残る水溜りが春の日差しを受けてキラキラとまぶしい。ヒロキは水跳ねに注意しながら高架下の駐輪場を目指していた。

 自転車は軽快に進む、高架線をくぐれば駐輪場はすぐそこだ。しかしその流れを断ち切るようによもぎの声がヒロキの頭の中に響いた。昨晩と同じ潜めた声だが、かなり焦燥しているのがわかった。


「ヒロキさん、ヒロキさん。またです、またあのいやな感じが……」


 ヒロキはすぐに止まって周囲を見渡す。


「よもぎ、方向はわかるか?」

「はい、わかります。ちょっと遠いです。えっと……前の方、あの本屋さんのあたりです」


 ヒロキはガードの向こうに見えるまだ開店前の書店に目を凝らす。朝のピーク時を過ぎたとは言えまだまだ多くの人々が通り過ぎ駅に吸い込まれていくのが見えた。

 ヒロキは大きく深呼吸すると意を決して言った。


「よもぎ、行くぞ」

「えっ、ヒロキさん、行くって……」


 ヒロキはペダルに足を掛けて発進の体制を整える。そして書店の先に見える交差点の信号が赤から青に変わるタイミングで力をこめてペダルを踏んだ。


「今なら人も多いし信号も青になったばかりだ、そのままダッシュでバス通りの向こうに抜けられる。よもぎ、行くぞ!」


 ヒロキは書店に向かってスピードを上げた。


「ちょっと、ちょっと待ってください。ヒロキさん、ヒロキさんってば!」


 よもぎが制止するもヒロキはぐんぐんと加速しながら道路を横切り走路を書店のある側に寄せていった。

 通勤通学の人波、ティッシュ配りの中年男性の姿、開店準備を始めた書店の店員、そんな街の風景がヒロキの視界の後方に消えていく。書店の隣には小さなたばこ店、用意された灰皿の前で通勤前の一服を楽しむ人々が見える。そしてその中に頭一つ高いあの金髪の姿が見えた。

 ヒロキは瞬時に男の顔を確認した。確かにスーパーで遭ったあの顔だ。着古した淡い黄色のシャツに色褪せたこげ茶色のブルゾンを羽織ったその男は目の前を行くヒロキに気付くことなく眠たそうな目をして紫煙をくゆらせている。ヒロキの目にはそのシーンだけがまるでストップモーションのコマ送りのように鮮明に焼き付いた。

 男の顔をしっかりと記憶したヒロキが前方に視線を向けると、交差点では歩行者用信号が点滅を始めていた。ヒロキはさらにスピードを上げて一気に交差点を渡りきる。そしてそのまま直進して駅前の交差点を後にした。


「ここまで来ればもう大丈夫だろ」

「ヒロキさ――ん、いくらなんでも無茶ですよ。よもぎは気が気じゃなかったです、どうなっちゃうんだろうって」


 ヒロキの中によもぎの気の抜けた声が響く。それはまるであたふたと慌てるよもぎが目の前にいるようだった。



 四月に入ってからヒロキとよもぎはあの「いやな感じ」に何度か遭遇していた。よもぎが狙われていることはわかっているものの腕力に自信のないヒロキはそのたびに遭遇を回避しようと迂回せざるを得ず、まるで追われる立場なこの状況にすっかり辟易していた。

 しかし今日はこれまでと事情が違う、なにしろ自転車と言う奥の手を確保しているのだ。とにかく今日は逃げたくない、少なくとももう一度あの男の顔を拝んでやりたい。そう考えたヒロキはよもぎの静止を振り切ってわざと男の前を通り過ぎてみたのだった。

 ところがあの男は目の前を横切るヒロキに気付かなかった。よもぎがあの「いやな感じ」を察知した場所からあの男が立つたばこ店までは四、五〇メートルの距離があった。それだけ離れた距離からでも感じ取れる能力をあの男は持っている。しかしあの男は目の前の自分に気付かなかった。この事実から察するに、あの男は一定以上の速度には対応できない、ということではないか。


「なあ、よもぎ。さっきオレがチャリでスピード上げたとき、どうだった? あいつの目の前を横切ったときとかさ」

「それが……あのいやな感じが消えちゃったんです。本屋さんの前あたりでふわって感じで、なくなっちゃったんです」


 よもぎは釈然としない口調で答えた。

 やはりそうだ。ヒロキは目の前でよもぎが首を傾げるさまをイメージしつつ、ニヤリとほくそ笑んでつぶやいた。


「これはいい展開になってきたぞ。なあよもぎ、君が言ってたようにこれからはこちらから動くことにするよ。いいアイディアを思いついたんだ。大学に着いたらすぐに神子薗みこぞのと作戦会議だ」

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