第42話 顕現

「こういうのは男の仕事だよな」


 ひとりキッチンに立ってヒロキはずっしりとした土鍋を準備する。それはいつものおひとり様用の鍋ではなく、彼の引っ越し祝いと称した飲み会でたった一度だけ使った大きな鍋だった。続いて食器棚にストックされた出汁だし用昆布やら、軽く洗ってざく切りにした野菜やら、自炊生活がそこそこ長い彼はテキパキと下準備を整えた。するとそのとき背後に気配を感じて振り返るとそこによもぎがいた。


「ヒロキさん、よもぎはお豆腐をやります」


 よもぎはそう言ってヒロキの横に立つと、ボウルに濃い目の食塩水を作りそこに木綿豆腐を浸した。


「なんだそりゃ、豆腐に下味をつけるのか?」

「違います、違います、こうしてしばらく置くと水切りになるんです。えっと、その、なんとか圧力みたいな……」

「なるほど、浸透圧か。それにしてもこれだけのことを覚えていながら自分のことはさっぱりなんだよな」

「ですよねぇ、へへへ」

「へへへって、あ、よもぎ、お前は神子薗みこぞのを……」

「可憐ちゃんは大丈夫みたいです。だってほら」


 よもぎは首だけを居室の方に向けて見せた。


「あのきれいな人、きっとシロさんですよね」


 ヒロキも居室に目を向けると、可憐の隣に髪も肌も衣装もとにかくすべてが純白の女性が座っているのが見えた。


「シロさんですよねって、シロは狐じゃないか。確かに白いことは白いけど……よもぎ、ここは任せた」


 その一言を残してヒロキは急いで居室に向かう。


神子薗みこぞの、その人は……」


 二十代半ばのキャリアウーマン然とした自信に満ちた面持ちで隣に座る純白の女性を前にした可憐は、ヒロキに少しばかり困惑した笑顔を返した。


「太田クンが思っている通り、この子がシロよ」

「この子が、って……この人、神子薗より年上だろ、どう見ても」

「太田クンってそういうところ、案外気にするのね」


 すると白き女性が閉じていた目をゆっくりと開く。その瞳はルビーのように澄んだ赤、それはヒロキが以前に見た狐の瞳と同じ赤だった。女性はヒロキの目を見据えながらゆっくりとした口調で話し始めた。


「ヒロキ殿、この姿でお目にかかるのは初めてであるな。可憐にシロと呼ばれている者だ。其方そなたもシロと呼んでくれて結構」

「あっ、は、初めまして……なのかな」


 ヒロキは正座して姿勢を正す。


「ヒロキ殿、気を遣わずともよい。われら西洋の茶は少々苦手なゆえ」


 確かにヒロキはシロに紅茶を出すつもりでいた。しかし先読みをされたのだろう、先手を打たれてしまった。この流れに勝手がつかめないヒロキは助けを求めて可憐の顔を見る。


「なあ神子薗、やっぱり出てきてくれたじゃないか。シロ……シロさん……」

「先ほども申した通り、シロで構わぬ」

「私もまさかこうして、それも人の姿で出てくるとは思わなかったわ」


 思いがけないシロの登場に可憐の方がヒロキ以上に驚いていた。


「先程はよもぎ殿にもご挨拶をさせて戴いた」


 シロは相変わらず姿勢を崩すことなく続けた。

 手入れの行き届いた長い髪、それを頭の後ろで束ねる髪飾り、神社の巫女服に似た装束、それらすべてが純白で、凛としたそのたたずまいはヒロキの部屋にはまるで似つかわしくないものだった。そしてヒロキはそんなシロの姿にただただ見とれてしまうのだった。



「ねえ、シロ」


 可憐が会話の口火を切った。


「驚いたわ、シロがこの姿で出てくることなんて滅多にないもの」


 これまでシロが可憐の前に人の姿で現れたのは可憐がまだ幼い頃に何度か見た程度だった。その後も悩み落ち込む可憐に助言を与えるために現れたことがあったがそれらはいずれも夢の中でのできごとだった。そんなシロが人の姿で現れて目の前で自分以外の者と言葉を交わすなどということは可憐にとって驚きの光景だった。そして可憐はシロがこうして出てきたのは今日起きたあの男のことが原因であるに違いないことも確信していた。

 シロは目を閉じたままゆっくりとした口調で語り始める。


「ヒロキ殿、其方そなたらはこれから厄災に巻き込まれようとしておる。それは避けようのない災いである。彼奴きゃつの力は尋常ではない。だが其方そなたらはそれに打ち勝たねばならぬ」

「厄災って……それってあの男のことだよな」


 ヒロキは可憐に同意を求めるように言うと、シロに困った顔を返した。


「そんな……オレには神子薗のような能力もないし、よもぎだってあの男に対抗できるような力はないし……そうだ、シロは……シロは助けてくれないのか?」

「そうよシロ。私だって……くやしいけれど、私だって力不足よ」


 シロは閉じていた目を開くとヒロキと可憐に向かって諭すように語りかけた。


彼奴きゃつの力にはかなわぬと思うのならば、其方そなたらは力でではなく知恵で解決することを考えよ。だがそのためには今のような精進ではまだ足りぬ。これまで以上に互いの絆と親睦を深めて事に臨む必要があろう」

「知恵とか親睦とかってどうすればいいんだよ」


 ヒロキの疑問にシロは答える。


「ヒロキ殿、それは既によもぎ殿が答えを出しておるではないか」

「よもぎちゃんの答えって……それって、協力して相手を探るってことね」


 シロは再び目を閉じて深くうなずいた。


「今の其方そなたらにとってはそれが最良の策と言えよう」

「そっか、シロはそれを私たち三人に伝えたくて出てきてくれた、ってわけね」


 可憐の言葉にシロはもう一度静かに頷くとヒロキに向かって続けた。


「さて、ヒロキ殿、可憐、そろそろよもぎ殿が其方そなたらを呼ぶであろう」


 シロの言葉で二人がキッチンに目を向けたちょうどそのとき、よもぎの声が聞こえた。


「ヒロキさん、お鍋、お願いします。よもぎはコンロの準備をしますから」

「お、おう」


 ヒロキはキッチンにから熱々の大鍋を両手にちゃぶ台の前に立ち、よもぎはコンロにカセットボンベがセットされていることを確認してそれをちゃぶ台の上に置く。そしてよもぎはシロにも声をかけた。


「シロさん、シロさんも一緒に食べてくれますよね」


 シロは目を閉じたまま小さく頷いた。

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