第37話 何かとてもいやな感じが

 N市駅前には高架下と隣接する駅ビルの二ヶ所に価格競争を繰り広げる大手スーパーマーケットがあった。道を急ぐヒロキの頭の中によもぎの声が響く。


「ヒロキさん、ヒロキさん、今日はどちらのお店に行くんですか?」

「いつもの駅ビルの方に行くつもりだけど」


 ヒロキも声に出さずに頭の中でそう答えたが、しかし今日のよもぎは何を気にしているのだろうか、いつもの明るい答えが返ってくることはなかった。


「よもぎ、どうしたんだよ。さっきから黙っちゃって」

「なんでもないです。それよりヒロキさん、可憐かれんちゃんが気にしてるみたいですよ」


 よもぎに言われてヒロキは後ろを振り返る。そこでは可憐が後ろを歩きながら冷めた目つきで見つめていた。


「太田クン。今、よもぎちゃんと会話してるでしょ。そういうときって太田クン黙り込むからすぐにわかるのよね。そのうち今度は会話と同時並行で他のことをするようなエクササイズも考えなくちゃね」

「またエクササイズかよ」


 そんな会話を続けているうちにヒロキが言うところの「いつものスーパー」の前に到着した。店の前で再びよもぎがヒロキに声をかける。


「やっぱりこっちにしたんですね」

「どうしたんだ、何か言いたいことがあるならハッキリ言ってくれよ」

「そうじゃなくて……」


 力なくそんな言葉を残したままよもぎの意識はヒロキの頭から消えてしまった。


神子薗みこぞの、よもぎがちょっと、その、なんかいじけてるみないなんだ。ほんとはよもぎと相談しながら献立を考えるつもりだったんだけど、オレでも簡単にできる鍋でもいいかな」

「もちろん。それよりちょっと気になるわね、よもぎちゃん。もしかして何か妙な干渉でも受けてるのかしら」


 そんな会話を続けながら二人は買いものを始めた。今日は可憐へのおもてなしである、いつもの常夜鍋じょうやなべよりもずっと奮発した具材を選びたい。魚介を中心に野菜もいろいろ、最後に豆腐のコーナーに立ったヒロキは一丁の木綿豆腐と三パックの油揚げをカゴに入れた。


「これでよし、と」


 レジで精算を済ませて出口に向かおうとしたそのときだった、ヒロキの頭の中によもぎの声が響く。しかしその声はかなり慌てた様子だった。


「ヒロキさん、そっちに行っちゃだめです。反対側の出口に……」


 同じく可憐も何かを察したのか声を上げる。


「太田クン、ちょっと待って。これって、この胸騒ぎって……ねえ、よもぎちゃんは何か言ってない?」


 まるで申し合わせたかのように同じことを言い出すよもぎと可憐の二人にヒロキは戸惑いを隠せないでいた。


「二人ともいきなりどうしたんだよ」

「何かとてもいやな感じが……よもぎ、覚えてます。これ、前にも感じました。ヒロキさんは何も感じませんか? 可憐ちゃんは?」


 再びヒロキの頭の中によもぎの声が響くと、ただならぬその様子を感じた可憐もヒロキの顔を見上げた。


「やっぱり、よもぎちゃんも何か感じてるのね。太田クン、とにかく意識をよもぎちゃんに集中させて」


 すると二人の視界にエントランス脇の喫煙ボックスから出て来る一人の男の姿が映った。一八〇センチメートルはある長身に窪んだ眼窩がんかの奥には猛禽類のような鋭い目、それが真っ直ぐヒロキを睨みつけていた。

 痩せこけた頬から冷徹そうな薄い唇、尖った顎までを無精髭がまばらに覆い、閉じきっていないだらしなさそうな口からは黄ばんだ歯が見えている。金色に染められた長髪をバックに流していたが、ろくに手入れをしていないであろうその生え際は黒い地毛のままだった。

 男はヒロキを見据えたままゆっくりとこちらに向かって来る。そしてあと数メートルのところで立ち止まると、両手をポケットに突っ込んだまま不敵な笑みを浮かべてヒロキと可憐を交互に睨みつけた。

 男はヒロキの全身を舐めるように見回すと、着ているジャケットのポケットを、それも狙ったようにスマートフォンを入れているポケットを凝視して口を開いた。


「ふ――ん、なるほど、おもしろいものを持ってるな、オマエ」


 数メートルの間合いがあるとは言え、男の身体からだから発せられる強いたばこの臭気は刺すような刺激となってヒロキの鼻腔にまで入りこんできた。男の表情がヒロキを馬鹿にしたような薄ら笑いから真剣な面持ちに変わる。それとともに身の危険を感じたヒロキは半歩下がって可憐を守るように身構えた。


「よもぎ、聞こえるか? 気をしっかり持て。イメージだ、イメージ。神子薗は下がって、すぐに逃げられるように」


 ヒロキは可憐の様子を確認するため斜め後ろにちらりと目を向けた。そのときヒロキの視界に入った可憐の姿はいつもの強気な態度など微塵も感じられないほど怯えた様子で固まっていた。


「神子薗、どうした、しっかりしろ!」


 ヒロキは小さいながらも力をこめた声で可憐にそう呼びかけると、再び男を睨み返した。


 夕方の買いもの客が男とヒロキの間を行き交い、幾人かは尋常でない二人の姿を何事かと振り返っていく。ヒロキにとって経験したことがないほどの緊張感、それはほんの一、二分のことであったがとても長い時間に感じられた。

 やがて張り詰めた緊張を破るように男の唇が動きだす。声は聞こえなかったがヒロキにはその動きが意味するものがはっきりと理解できた。後ろに立つ可憐もそれに気付いたのだろう「あっ」っと小さな声を上げた。男の唇の動きが意味するもの、それは「よ・も・ぎ」だった。

 男はそれ以上のことは何もせず、粘り気のある笑みを浮かべると踵を返して去っていく、片手を上げバイバイのジェスチャーとともに。


 やがてヒロキの緊張は解けて両手に買いもの袋のずっしりとした感覚が蘇る。しかし彼は呆然としたまま動くことができなかった。可憐はそんなヒロキに耳を貸すよう手振りする。


「太田クン、ちょっと」


 ヒロキはその仕草に耳を傾けようとその場にかがんだ。同時にヒロキの頭上に可憐の手刀が振り下ろされた。


「イテッ、何するんだよ、いきなり」


 可憐はあきれた顔でヒロキに言った。


「目は覚めたかしら?」

「な、何を言ってるんだ」

「やられたわね、私まで……迂闊だったわ」

「だから、いったい何なんだよ。説明してくれよ」

「誘導よ」

「誘導?」

「そう、まんまとしてやられたわ」

「それってさっきのあいつにか?」

「違うわ、もっと前からよ。大学にいたときから」

「それって……」

「シロよ。久々にやられたわ」


 可憐は額に手をあてて言った。


「とにかく早くここから立ち去りましょう。でもあいつが出て行ったあの出口は避けたほうがいいわね、他に出口はある?」

「それなら向こうに」


 ヒロキは可憐をエスコートするように男が出て行ったメインエントランスとは反対側の裏口に向かって歩きだした。

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