第29話 夏風邪
夏も終わりに近づいたある日、いつものように仕事帰りに可憐を迎えに来た母親に住職が居間で待つように言った。
「お
そう言って可憐の母親が深々と頭を下げると住職は手を差し伸べてソファーに座るよう促した。
「そう気になさらずに、今は可憐のためにも生活の安定を第一に考えなさい。それに私らも可憐のおかげで楽しい毎日を過ごさせていただいている」
ひと通りの挨拶や近況の会話が一段落したのを見計らって住職は姿勢を正して本題を切り出した。
「ところで、可憐のことなんだが」
住職のいささか神妙な顔に母親も思わず姿勢を正す。住職は可憐が何もないところを見つめたり気にしたりする仕草や、本堂や稲荷堂でのひとり遊びについて話し始めた。それを聞いた母親も何かを思い出したように話し始めた。
「あの子、うちでもひとりでおままごとをすることがあるんですけど、いつも食器を壁に向かって並べるんです。お人形とかぬいぐるみを相手にというのではなく、誰もいない壁際に、なんです」
「なるほど、お宅でもそういうことがあるんですね」
しかし住職は母親の不安を少しでも和らげようと諭すように続ける。
「そういう子はたまにいます、感受性が強いと言いますか。しかし
可憐の母親は住職の話をうなづきながら聞いていた。
「大事なのは否定をしないこと。あの子が何を言っても否定はせず同意と共感をもって接してあげるのがよいでしょう」
「わかりました、疲れていてもできるだけ会話の機会を持つようにして、そして可憐の話をたくさん聞いてあげます」
「そうでしょう、それがよいでしょう。そして繰り返しますが、くれぐれも可憐が言うことは受け入れてあげるように」
そのとき廊下を走る軽い足音が聞こえてきた。
「ママ――っ!」
と居間の入口から可憐が顔を出す。
「ママ、おかえりなさ――い」
「ただいま、可憐。いい子にしてた?」
母親はソファーから立つと床に片膝をついて可憐と目の高さを合わせるとその肩にそっと手をかけながらやさしく頭を撫でた。可憐は弾むような声で母親に今日一日の報告をする。
「今日もね、ワンちゃん……じゃなかった……えっとね、シロとね、遊んだの」
「シロ……?」
なるほど住職が言っていた話はこのことかと察した母親は住職の助言に従って可憐の話に疑問も否定もせずに「そっか、新しいお友だちができたのね」と言って微笑みかけた。
住職の寺から
「ねえ、ママ……」
可憐の弱々しい様子に何かを感じた母親は立ち止まってその場にしゃがみこむと可憐と同じ目の高さで話しかけた。
「どうしちゃったのかな? 今日は遊びすぎて疲れちゃったかな」
「ううん、なんかね、ちょっと眠くて……ちょっと寒いの」
「えっ?」
母親はすぐさま可憐の額に手を当てる。その額は冷たい汗でうっすらと濡れていた。母親はハンカチで可憐の額の汗を拭く。
「夏風邪かしら」
母親はバッグから携帯電話を取り出すとすぐさま住職に電話をかける。数回の呼び出し音の後、電話口に出たのは住職の妻だった。
「あっ、お
母親が可憐の様子を説明し終えるとしばしの間に続いて住職の声が聞こえた。電話の向こうから聞こえるその声に母親は安堵の気持ちに包まれた。
「今はどのあたりだ? 商店街の手前? そうか、ならばこちらに戻るほうが近いだろう。よし、とにかく可憐を連れてきなさい……大丈夫、心配ない、ひと晩様子を見て熱が下がらなければ明日私たちが病院に連れて行こう」
母親は電話を切ると可憐に「伯父ちゃんのところに戻ろう、ね?」と言って、歩いてきた道を引き返した。
「もう少しだけ、がんばろうね」
可憐は黙ってうなずくと、母親に余計な心配をかけまいとくちびるを噛みしめて歩き出した。
「お
可憐の母親は玄関先で頭を下げた。
「そんなに気になさらないで。可憐のお部屋にお布団を用意しておきましたから」
母親からの電話を受けて住職の妻はすぐに寝床の準備をして
「可憐、今日はここでおやすみ。ママは明日の朝ここに寄るからね」
可憐は熱で火照った赤い顔をしていたがここでも母親に心配をかけまいと笑ってバイバイと手を振った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます