第28話 シロ

 東京西部に位置するS市K町にある小さな寺、まだ幼い神子薗みこぞの可憐かれんはこの寺の本堂で祭壇の前に座って天井から下がる天蓋てんがいを見上げるのが好きだった。静まり返ったその場所に小さな膝を抱えて座るたび彼女はひとりでくうに向かって微笑みかけたり問いかけたり、またあるときはうなずいたりを繰り返しているのだった。

 住職はそんな可憐の仕草を「ひとり遊び」と呼んでいた。そして今日もそれをしていた可憐を見かけた住職はさとすように言う。


「可憐や、そろそろお部屋に戻りなさい。仏さまもこれからお仕事があるからね。さあ母屋で伯母おばちゃんに冷たい麦茶でもいれてもらいなさい」

「は――い」


 そう言って立ち上がった可憐の頭を住職はやさしく撫でるとそっと肩を押して本堂から廊下へと促す。そしてトテトテと廊下を走り去る小さな後姿を見ながら住職はひとりつぶやくのだった。


「やれやれ、誰の何を受け継いだんだか……まあ、ああいうのはいずれ大きくなったら消えてしまうんだろうけどな」



 可憐は父親の顔を知らない。彼女が生まれて間もない頃に父親は不慮の事故でこの世を去っていたのだった。突然の訃報と生まれて間もない娘を目の前にして途方にくれる母親に亡き夫の兄であるこの寺の住職が手を差し伸べた。

 その小さな寺は住職が妻と二人で守っていた。子宝に恵まれなかった二人はさっそく母屋の空いている部屋にタンスや机やふとんを取り揃えると幼い可憐のために部屋を用意した。以来、母親が働きに出ている日中、可憐はこの寺で過ごしているのだった。


 ある日住職は可憐には他の人には見えないものが見える能力があるらしいことに気がつく。そのきっかけは可憐が時折見せる、ふと誰もいない方向を凝視したり天井を見つめる行動をすることからだった。特に本堂の祭壇に掛かる天蓋が可憐にとってのお気に入りらしく、誰もいないのを見計らっては祭壇の前に座りじっと天蓋を見つめている姿を住職は何度も目にしていた。そしてその様子はまるで天蓋に宿る誰かとのおしゃべりを楽しんでいるかのようだった。

 住職も最初のうちはそんな可憐をただ見守っていた。しかしたびたびそんな行為に耽けることが可憐にとって必ずしも好ましいことではないのではと考えた住職は、本堂で佇む可憐を見つけるたびにやんわりと注意をして母屋に向かわせるようになっていった。


 やがて可憐にはもうひとつのお気に入りの場所ができた。それは本堂の裏手にある稲荷堂だった。いつの頃からか可憐がそこの石段に座っていると、どこからともなく白い犬が現れるようになる。可憐はその犬を「ワンちゃん、ワンちゃん」と呼んでかわいがり、それからは毎日のように稲荷堂で過ごすようになっていく。そしてある日、可憐は住職にその犬のことを話した。


「ねえ伯父おじちゃん、あの白いワンちゃん、おうちに入れたらだめなの?」

「ワンちゃんって……犬がいるのかい?」

「うん、白くて大きいワンちゃんだよ」

「そうか……それでそのワンちゃんはどこにいるんだい?」

「お稲荷さんのところ」


 その一言で住職は何かを察したように可憐に手を差し向けた。


「可憐や、伯父ちゃんといっしょにおいで」


 住職は可憐の手を引いて稲荷堂に向かった。

 白い玉砂利を踏みしめて本堂の脇を抜けると小さな赤い鳥居が見える。住職はその鳥居の前で立ち止まり一礼する。可憐もそれを真似て同じように一礼する。住職は鳥居をくぐり抜けると稲荷堂の前で再び頭を下げると、可憐もまた同じようにする。そして三度目、住職はあらためて手を合わせて深々と頭を下げる。すると可憐もまた同じように頭を下げた。

 こうして三度の礼の後、住職は頭を上げて一息つくと懐から折りたたんだ白いハンカチーフを手にして額に浮いた汗を軽く拭いながら可憐に向かって言った。


「可憐や。今、お稲荷様にお願いをしておいたよ」

「お願い? 何を?」

「可憐を守ってください、って」

「可憐を? ワンちゃんが?」


 住職は可憐の頭を撫でながら言った。


「可憐や。あれは犬ではない」

「ワンちゃんじゃないの?」

「そう。あれはね、狐、お狐さまだよ。今、お狐さまに可憐をよろしくってお願いしたんだよ」


 犬ではなく狐であると言われた可憐はその言葉に納得できていないようだった。


「ふ――ん。でも伯父ちゃん、おうちはどうするの?」

「お狐さまはね、ここがおうちなんだ。だから可憐はお狐さまに会いたくなったらいつでもここへくればいいんだよ」


 そう言われた可憐はひょっとしたら今ここに白い犬ならぬ狐が出て来てくれるのではないかとの淡い期待とともに、扉が閉じられた稲荷堂をいつまでも見つめていたがそこにあるのは静寂だけだった。

 次の日から可憐はその狐を「シロ」呼ぶようになった。犬ではないと教えられた以上「ワンちゃん」と呼ぶわけにもいかず、幼い彼女なりに考えてつけた名だった。

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