第二章 ようこそ、こちらがわへ

第26話 ふたりとひとりのカフェテリア

「ヒロキさん、ヒロキさん」


 いつものようによもぎが頭の中に問いかけてくる。


「ヒロキさんってお部屋だといつも紅茶なのに学校だとコーヒーなんですね」

「よもぎはコーヒー好きか?」

「う――ん、嫌いじゃないけど、どちらかというと紅茶が好きかな」

「そうか。ならいいや」

「え――、ならいいやって、それではお話が続きません」


 ヒロキの部屋には以前に母親が送ってきた贈答用レギュラーコーヒーの詰め合わせがあった。一杯ずつ個別包装されたそれを試してはみたもののヒロキはすぐに使うのをやめてしまった。


「理由ってほどではないけど、その、面倒なんだ。うちにあるあれさ、一杯ずついれるタイプだろ? 部屋でレポート書くときなんかは何杯も飲むじゃないか。そのたびにいちいち真空パック開けてドリップしなきゃだし、それにゴミも増えるし」


 ヒロキは冷めかかった紙コップのコーヒーを口にして続ける。


「紅茶ならポットにティーバッグ入れておけば何杯も飲めるだろ、ゴミだってティーバッグ一個だけだし、エコじゃないか」

「ええっ、そんな理由なんですか? よもぎはヒロキさんは紅茶にこだわりがあるのかと思ってました」

「ないない、そんなもの。だってうちの紅茶が徳用パックなのはよもぎも知ってるだろ」

「でもでも、たとえお徳用でもヒロキさんなりの何かこだわりとかがあるんじゃないかなって」

「強いて挙げるなら……うん、値段が安い、だな。ハハハ」


 静かな学内カフェテリアにヒロキの笑い声が響く。自分自身の声で我に返ったヒロキは慌てて周囲を確認する。新学期まで閉店中の誰もいないカフェテリアでひとり声を上げていたことに赤面しながらカップの脇に置いたスマートフォンに目を移すとそこではよもぎの画像が微笑んでいた。

 最近のヒロキは心の中でよもぎと会話することにすっかり慣れていたが、それでも目の前にスマートフォンを置いてそこに映るよもぎの姿に向かって会話することが多かった。


 二人の会話が途切れたちょうどそのとき、ヒロキはテーブルに置いたスマートフォン越しに他人ひとの気配を感じた。目だけで様子をうかがうと席の真向かいに一人の女子学生が立っている。彼女は目尻が少し切れ上がった猫のような目を輝かせながら興味津々の顔でヒロキを見下ろしていた。


「おもしろい子を連れてるのね。その子はあなたの彼女さんかしら?」


 女子学生はヒロキのスマートフォンを覗き込もうと少し前屈みになる。彼女が着ているウールのタートルネックセーターの真っ赤な色と手入れの行き届いた長い髪の黒、そのコントラストが彼の目に飛び込んできた。ヒロキは慌ててスマートフォンをポケットに押し込むと警戒するように彼女の顔を見上げた。


「あっ? 何の話だ?」

「そんなに身構えなくても大丈夫よ。あなたたちをどうこうしようってわけでもないし、悪意も何もないわ」


 女子学生が挨拶代わりに小さく会釈すると眉の少し上で綺麗に切り揃えられた前髪もふわりと揺れた。そしてヒロキの向かいの席に腰を下ろすと首にかけた数珠のような紫檀のネックレスを軽く撫でながら続けた。


「スマホをしろにするなんて、よく考えたわね」


 ヒロキは女子学生の顔を見もせずにカップのコーヒーを口にする。しかしそんなヒロキのぞんざいな態度を彼女はまるで気にしていないようだった。


「それはあなたのアイディアかしら? それとも……もし彼女がそうしたのだとしたらすごいことだわ。今の社会にうまく順応してるってことよ。それってかなりレアなケースよ」

「君、いきなり何を言ってるんだ? わけのわからないことを」


 ヒロキは少々語気を強めて応えた。女子学生はイスに座ったその足を組み直す。細身の黒いレザーパンツに包まれたすらりとした足に一瞬目を奪われたヒロキの様子に気付いた彼女は軽く微笑みながら言った。


「興味深さが先に立って失礼な態度をしてしまったのは謝るわ。でもね、ほんとに悪気はないのよ」


 女子学生は軽く頭を下げるとヒロキの顔を正面から見て言った。


「私ね、他の人には見えないものが見える人なの」


 ヒロキはコーヒーの最後の一口を飲み干してカップを握りつぶし席を立った。


「何なんだ、何なんだ君は!」


 部屋中に響き渡るほどの声を上げるとヒロキは足早にカフェテラスを後にする。女子学生は出て行くヒロキを目で追いながら首から下げた木珠をスッとひと撫でしながらため息をついた。


「ちょっと怒らせちゃったかな」



 キャンパスを出て地下鉄の駅に向かうヒロキの頭の中によもぎの声が響く。


「さっきの人なんですけど……」

「ああ、ヘンなヤツだったな」

「ヘンって言うか……」


 よもぎは口ごもった。


「どうした? ひょっとしてまた引き寄せられそうだったのか?」

「ううん、そうじゃなくて……何かあの人、ヘン」

「だから、オレもヘンって言ってるだろ。どうしたんだよ」


 ヒロキはよもぎとの会話に集中するために立ち止まった。


「ああ、すまん。オレ、ちょっとイラついてた」


 ヒロキは素直に謝って続けた。


「それで何が気になってるんだ?」

「なんか……なんか、よもぎ、あの人……二人いるように感じて」

「ふ、二人?」


 ヒロキはつい声に出してしまった。道行く何人かが何事かという顔をしてこちらを見る。ヒロキは周囲に気取られないよう舗道に背を向けて近くの塀の前に立つと、よもぎの姿を思い浮かべながら言葉を向けた。


「二人って……どう見たってあいつ一人だっただろ」

「だから……よもぎの勘違いかも知れないんですけど……でもやっぱりもう一人あそこにいました、絶対」

「おいおい、やめてくれよそんな展開。それじゃまるで怪談話じゃないか」


 ヒロキは再び駅に向かって歩き出した。


「でもでも、ヒロキさん」


 よもぎの声は続く。


「よもぎたちだって二人ですよ」

「まあ、言われてみれば……確かにそうだ」

「だからあの人から見たら……」

「同じってことか」


 よもぎの言葉に妙に納得したヒロキであったが、それでもどこか釈然としない気持ちを抱いたまま地下鉄駅への階段を降りるのだった。

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