第18話 ヒロキのファンタスティック・ブレックファスト
耳元の小さな三つ編みが解かれた髪はその部分だけに緩いウェーヴの余韻を残していた。
カーテンの隙間から射し込む月明かりが部屋全体を青いモノトーンで包み込んでいる。ゆったりとしたカッターシャツの襟元から覗く首筋と鎖骨、その肌は磁器のように白くなめらかだった。
はだけた襟元の下にはまだ成長しきっていない小ぶりなふくらみがあることはシャツが描くシルエットから容易に想像できた。彼が視線を胸元から少しだけ上に向けると、そこにはいつもの無邪気さとは違う大人びたよもぎの顔があった。
彼は右手を伸ばしてその左耳に触れる。そのまま指先を左の頬をなぞるように滑らせると彼女の唇から微かな吐息が漏れた。よもぎが呼吸する度に胸のシルエットがそれに同期する。
彼は月明かりに浮かぶ柔らかな首筋から鎖骨へと指を滑らせてシャツの第二ボタンを
一瞬の躊躇の末に彼は彼女のボタンに指をかけた。その手を白く小さな手が包むようにやさしく握りかえす。そして囁くような声で彼の名を呼んだ。
「ヒロキさん……」
「よもぎ……」
彼もかすれた声でそれに応えると、よもぎをやさしく抱き寄せる。彼女の息遣いと鼓動が彼の耳元に伝わってくる。するとよもぎも軽く目を閉じながら彼の胸にその身を委ねた。
「よもぎは……よもぎはこんな展開を望んでましたよ」
「展開……って、それはオレのいつもの……」
彼が言い終わる前に彼女はその唇に人差し指をあて、台詞の続きを
「よもぎ」
「いいんですよ、よもぎは、よもぎは……」
しかし続く彼女の言葉を彼は聞き取ることができなかった。そして華奢な背中を愛撫しながら気の利いた台詞を搾り出そうと試みる。この美しくも
「よもぎ、オレは……オレは……」
彼もまた続く言葉を発することができなかった。口に出そうにもそれが声にならないのだ。
「よもぎ……よもぎ……」
彼はその名を呼び続けた。彼女もいつになく甘えるような声で繰り返す。
「よもぎは……よもぎは……ヒロキさん……」
彼はよもぎを抱いたまま目を閉じて消え入りそうなその声に耳を傾ける。闇の中ではいつまでもいつまでも自分の名を呼ぶ声が心地よく響いていた。
「ヒロキさん、ヒロキさん! ヒ・ロ・キさ――ん!」
今にも消え入りそうだった声が突然鮮明になって彼の寝ぼけた頭を揺さぶった。
「おはようございます。大丈夫ですか? ずいぶんと寝苦しそうでしたよ」
よもぎの顔がヒロキの目の前に迫る。彼女はベッドの前にしゃがみこんでその顔を覗き込んでいたのだった。
「ゆ、夢?」
「あ――っ、ヒロキさん、ひょっとして怖い夢でも見てましたか?」
「い、いや、そうじゃなく」
よもぎはいつものように屈託のない笑顔を見せる。
「ミルクティーをいれたので飲みませんか?」
夢の中のよもぎと目の前のよもぎとのギャップに戸惑いつつヒロキは起き上がろうとした。
その時!
ヒロキは股間に張り詰めた違和感を覚えた。その様子をよもぎに悟られないよう慌てて下半身にふとんをかけなおす。
「あっ、ああ、ミルクティー、いいね」
「ではそろそろ起きてください。朝食の準備も始めますね」
そう言ってキッチンに立つよもぎの後姿を見ながらヒロキはすかさずふとんをめくるとベッドを下りて足早にトイレを目指した。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
よもぎがヒロキに振り返る。
「な、なんでもない、なんでもないんだ。ほら、朝だからさ、ハハハ」
ヒロキはよもぎに
「まいったなぁ、この展開。まさかあんな夢……」
ヒロキの脳裏で青いモノトーンの中で見つめ合うよもぎの顔が思い起こされた。
「いかん、いかん、平常心だ、平常心」
ヒロキは用を足すと便座から立ち上がり、平静を取り戻したこわばりを確認しながら水洗レバーを引く。
「しかし、ああして実体化してるとリアルなJKなんだよなあ」
渦巻く水流を後にしてヒロキがトイレから出たときにはちゃぶ台に朝食の準備ができていた。
「おはよう。いつもありがとうな」
「いいんです、いいんです、お礼なんて、ほんとに簡単なものですし。それに、それに、朝食は大事なんですから」
よもぎが二つのカップにミルクティーを注ぎ始めると、ヒロキは寝グセのついた髪を掻きながらいつもの定位置に座る。よもぎと暮らすようになってからはお馴染みの光景だったが、今朝のヒロキはさっきまでの夢のおかげでどことなくバツの悪さを感じるのだった。
たっぷりのバターを塗った焼きたてのトースト、それによもぎが昨日まとめて茹でておいたと胸を張っていたゆで卵のひとつが食卓塩とともに供された。そして目の前には笑顔でミルクティーを飲むよもぎがいる。ヒロキはこの満ち足りたひとときをとても気に入っていた。
すると一瞬ではあるがあの大人びたよもぎの姿がフラッシュバックした。
「どうかしましたか? ヒロキさん」
「あ、いや、なんでもない」
そう言いながらヒロキはミルクティーを口に流し込む。そしてその甘さを楽しみながらあの夢の意味を考えるのだった。
よもぎがここに憑いて、いやここで暮らすようになってから早くも数日が過ぎていた。ヒロキはぎこちないながらもうまくやっているし、よもぎはよもぎでヒロキを気遣い尊重しながらこの時代と生活に順応していた。
もし二人のこの関係が崩れるとしたら、それはお互いが今よりもう一歩踏み込んだ関係になるときだろう、そしてそのきっかけはそれぞれがお互いに異性を意識したときではないか。ヒロキはそう考えていた。
今のヒロキは恋愛感情よりも家族愛に似た感覚でよもぎに接しているが、同時にこの奇妙な同棲生活に新鮮なときめきも感じていた。しかし彼はその思いを異性に対する感情ではなく幽霊という未体験の現象への驚きに置き換えることでバランスを維持しているのだった。
ヒロキは今朝の夢で自分がよもぎに異性を感じ始めていることを理解した。しかし相手は人ならざる存在である。それはヒロキが自分の感情をぶつけることを躊躇させるのに十分な理由だ。そしてそれを理由にしていることをよもぎに感じさせないように努めることこそがよもぎへの気遣いであるとヒロキは考えるのだった。
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