第15話 スイート・アンド・ビター

 シュンシュンとやかんの沸き立つ音とともに聞こえてくるのは食器が奏でるカチャカチャとした音、それはかつて家族と過ごした幼い日々の朝の記憶と重なる。あさげの準備に忙しい母親がそろそろ自分を起こしに来る時間だろう。ヒロキは寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、やがて聞こえてくるであろう母親の声に耳をそばだてていた。


「ふふふふーん、ふんふふーん」


 しかし聞こえてきたのは軽やかな鼻歌、朝から自分以外の気配を感じたヒロキの頭は一気に覚醒した。


「あのフレーズは……そうだ、よもぎだ。あの子、キッチンにいるのか」


 はたしてそこにはカーテン生地を通したやわらかな朝の陽ざしの中でティーポットを手にするよもぎの姿があった。


「ヒロキさん、おはようございます! よく眠れましたか?」


 寝ぐせ頭のヒロキに微笑みかけながらよもぎは四つ折りにしたペーパータオルをマット代わりにしてちゃぶ台にティーポットを置いた。


「カーテン、開けますね」


 部屋は一瞬にして朝の陽光に包まれる。よもぎはよく晴れた空をガラス越しに見上げるとレースカーテンだけをもう一度閉める。朝から甲斐甲斐しく動くよもぎの姿とその声にヒロキは今日からの新しい生活を実感していた。


「お、おはよう、朝から元気だな、君は」


 そこにはパジャマ代わりにスウェットの上下を着たよもぎが立っていた。二回りは大きなサイズをダボっと着たよもぎの姿はとても愛らしく、まさにアニメに出てくる妹キャラそのものに見えた。


「ふとん掛けてくれたんだな、ありがとう」

「いえいえこちらこそ、シャワーまでいただいて、とっても気持ちよかったです。それでそれで、ヒロキさんそろそろ起きるかなと思って紅茶を用意したんです。さあ、どうぞ、どうぞ」


 よもぎの言葉に急かされながらちゃぶ台の定位置に座ると、よもぎはキッチンから持ってきたマグカップに熱い紅茶を注いでヒロキに差し出す。しかしよもぎが用意したひとつだけのカップにヒロキはすぐに居心地の悪さを感じた。


「確か来客用にまだいくつかカップがあったはずだ……っと、これこれ」


 ヒロキは戸棚の奥を探ってマグカップを取り出す。そしてあまり使われていない真新しいそのカップを軽く洗ってちゃぶ台に持ってくるとティーポットから自ら紅茶を注いでよもぎに差し出した。


「これ、使ってくれよ」


 それは白地に藍色で唐草の文様もんようが描かれたブルーオニオンのカップだった。


「うわぁ、とってもかわいいです。使ってもいいんですか?」

「もちろんだよ、今からそれは君のカップだ」

「よもぎ、すっごく気に入りました。ありがとうです」


 目の前のカップを見ながらはしゃぐ姿に満ち足りた思いを感じながらヒロキは紅茶を口にする。すると口の中にさわやかな香りが広がった。


「これって生姜か?」

「えへへ、わかりました? ヒロキさん、昨日はあのまま寝ちゃったから、身体からだが冷えてるんじゃないかなって思って。冷蔵庫に生姜のかけらがあったから入れてみたんです」

「へえ、これはこれでありだな。朝から高級な気分になれるよ」


 ヒロキが感心しながら一杯目を飲み終わるとよもぎはすぐに二杯目を注ぐ。少しばかりピリッとする生姜の風味を感じながら正座に座り直すと、それにつられてよもぎも正座で向かい合った。


「あらためて自己紹介するよ」


 ヒロキはかしこまって頭を下げた。


「繰り返しになるかもだけど、オレの名前はヒロキ、太田ヒロキ、大学三年生だ。この春の新学期から四年生になる。今は後期試験が終わって休講中だけど、今年は補講だとか課題だとか、それに新学期から始まるゼミの下調べとかもあってさ、ちょくちょく大学には行ってる。実は昨日も行ってたんだ。期末に出した課題がダメ出し食らってさ、それも二回もだぜ」


 ヒロキはよもぎの目の前に二回を示すVサインを出して続けた。


「ま、オレのレポートも突っ込みどころ満載だったんだろうけど……っと、面白くないよな、こんな話」


 ヒロキは話題を変えようと正座から胡坐あぐらに座りなおして紅茶をもう一口、さわやかな辛味と香りが再び鼻を抜けていく。


「しかし昨日は驚いたよ。タイムスリップみたいなことになるし、わけがわからないし、そしたら君がいきなり現れるし、で……あ、正座なんて堅苦しいからさ、君も楽にしていいぞ、楽に」


 ヒロキの言葉に促されて足を崩すよもぎだったが、緊張してうつむき加減なその表情はどことなく暗かった。


「さてと、いろいろと聞きたいことがあるんだよな。まずは……」


 ヒロキはちゃぶ台に頬杖をついて続ける。


「昨日オレ、飯食った後にうたた寝しちゃてさ。そしたら夢の中でまたあのタイムスリップみたいな現象が起きたんだ。そのうち白いモヤみたいなのが現れてさ、それがだんだんとはっきりした形、そう、人の形になって誘導してくれたんだよ。あれって君だったよな。うん、確かに君だったよ」


 ヒロキはよもぎに同意を求めてみたがよもぎは相変わらずうつむいたままで否定も肯定もしなかった。


「それで目が覚めたらさ、さっきまで夢の中で飛んでた女の子が目の前でテレビ見てるじゃないか。ほんと、なんて展開なんだか、ハハ」


 二人の間に漂う重苦しい雰囲気をなんとかしようとヒロキは軽く笑ってみせたがよもぎの様子は相変わらずだった。


「なあ、ひょっとしたら昨日のあのタイムスリップみたいなのもあの夢も、みんな君の仕業だったのか?」


 ヒロキが様子を伺おうとしたそのとき、よもぎはおもむろにこちらを向いて声を上げた。


「知らない。よもぎ、何も知らないよ」


 自分の声に自分で驚いたのか、よもぎはハッとした表情を見せるとすぐに再び下を向いてしまった。


「覚えているのは、よもぎって名前と高校生なのと……」


 しかしその声は話すにつれて弱々しくなり、かすれて震えていく。


「あとは……覚えてないんです、何も」

「気を悪くしたなら謝るよ。だけど君のことを何も知らないままでいっしょにってわけにもいかないだろ」


 ついつい自分の語気が強まっていたことに気付いたヒロキは自分自身を落ち着かせようと再び紅茶のカップに手をのばす。


「ごめん、問い詰めるつもりはないんだ、もちろん怒ってるわけでもないし。だけど気になることがあるといろいろ考えちゃうんだよ。うん、これは理系男子の悪いクセなのかも知れない」


 そう言いながら飲み干した紅茶の味はヒロキにとってやけに苦く感じられた。

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