第11話 よもぎはお風呂に入りたい

 目の前からよもぎの姿が一瞬にして消えてしまった。これでようやっと妙な気疲れから解放されるはずだったが、しかしこの取り残されたような薄ら寂しさは何なのだろう。元々ひとり暮らしではないか、これが自分にとっての日常なのだ。そう自分に言い聞かせてみたものの、見る者がいないテレビから賑やかなアニメソングが流れているその光景がヒロキの心により一層の寒々しさを感じさせた。

 ヒロキはちゃぶ台に置きっ放しのリモコンを手にしてテレビの電源を切った。途端に耳が痛いほどの静寂が彼を包み込む。その静けさを埋めるように彼の頭の中に直接よもぎの声が響いた。


「ヒロキさん、ヒロキさん。よもぎ、ちょっと消えてみました。どうですか?」


 やはりよもぎはこの部屋にいた。その声に少しばかりの安堵を覚えたヒロキだったが、同時に釈然としない気持ちも沸き起こる。ヒロキは誰もいない天井に向かって声を上げた。


「ちょっと待て。これってオレからは見えないけど、そっちからはオレが見えてるんだろ? よもぎだけが有利なこの展開ってなんなんだよ」

「あ――、ヒロキさん、今、よもぎって呼びましたよ」

「マジか。でもまあ、いいや、適当に使い分けることにする」

「呼び方はおまかせしま――す。ではではヒロキさん、お風呂、ごゆっくりぃ」


 どことなく楽し気なその声とともによもぎの気配は消え、部屋は再びの静寂に包まれた。

 ヒロキはひとり長く大きな溜息を吐く。それにしてもたかが入浴にこれほど気を遣うことになろうとは。でも今さら後戻りはできない。とにかくここは自分の部屋なのだ、いつものように振舞えばそれでよいのだ。

 とは言うもののよもぎの視線はどこかに存在しているのだ。ヒロキは必要な着替えを抱えながら脱衣スペースのドアを閉めた。


「まさか、覗いてなんかいないだろうな」


 ヒロキはわざと声に出して聞こえよがしそう言うと、見えない視線に気を遣いながら着ている服を脱ぎ始めた。


 浴室に入るとすぐにシャワー水栓を開く。FRP製のユニットバスに勢いよく叩きつけられる冷水の温度が徐々に上がってそれが温かい湯になったとき、真冬の冷えた空間は真っ白な湯気に包まれた。

 ヒロキは熱めに設定したシャワーを頭から浴びながらこれからのことを考えた。


「それにしても女の子だぞ、JKだぞ。でも幽霊だしなぁ……てか、寝るときは? 飯は? マジでどうすんだよ、この展開」


 あたふたと悩みつつも嫌な気はしていなかった。むしろヒロキはよもぎという存在を自然と受け入れていた。それこそがよもぎが言うところの、波長が合った、ということなのだろうか。


「しかしいきなりこれって、ちょっとハードル高くないか?」


 ヒロキは再び頭からシャワーを浴びながら考えを巡らせる。


「ベッドは……そうだなぁ、とりあえずシーツを替えればいいか。オレは毛布をかぶって床で寝るとして、パジャマは……そうだ、先週洗ったスウェットがあったっけ、あれでいい。よし、なんとかなりそうだ」


 やはり入浴はいい、心が解れた気分である。シャワーを終えたヒロキは妙に吹っ切れた気分になっていた。パジャマ代わりのスウェットウェアを着て居室に戻ると髪と首周りをタオルで拭きながらドライヤーで髪を乾かす。軽いくせっ毛の短い髪は熱風ですぐに乾いた。

 続いてキッチンからグラスを持って来るとちゃぶ台に置きっぱなしのボトルから水を注ぐ。今では結露の水滴も消えたペットボトルの水はすっかり生ぬるくなっていた。ヒロキはグラスの水を直立不動で一気に飲み干す。するとその頃合いを待っていたかのようによもぎが姿を現した。


「うわっ! びっくりさせないでくれよ」


 前触れなき登場にヒロキはまたもやたじろぐも、そんな彼のことなど意に介することもなくよもぎはちゃぶ台の前に正座してその場に固まるヒロキを見上げて言った。


「ああ、なんかいいなあ、シャンプーの香り。懐かしい気分になります。修学旅行とかお友だちの家でお泊り会やったときとか」

「もしかして何か思い出したのか、昔の記憶とか」

「う――ん、残念だけど全然です。なんとなく言ってみただけです」


 どこか寂し気にそう答えるよもぎだったが突然顔を上げるとヒロキに向かって両手を合わせた。


「よもぎもお風呂に入りたいです。シャワーだけでもいいです、お願いします!」

「幽霊が風呂? まあ、入りたければ入ったらいいさ」

「ありがとうございます、よもぎ、うれしいです」


 シャワーの使い方は教えてやれば済むことだ、問題ない。しかし解決せねばならない新たな問題が立ちはだかった。先ほど考えたヒロキの脳内シミュレーションの通りパジャマ代わりには自分のシャツやスウェットなどを着せればいいが、入浴となれば話は別だ。

 下着はどうする?

 まさか自分のを着せるわけにもいかないだろう。


「なあよもぎ、着替えはどうするんだよ、その、下着とか」

「それなら心配は……」


 ヒロキはよもぎの答えを待つことなく「よし!」と声をあげると、すぐさまクローゼットに向かいダウンコートを取り出した。

 今は真冬の深夜、ヒロキはダウンコートだけでなく厚手の靴下も履くと、机の上のスマートフォンを手にして玄関に向かう。よもぎは座ったまま所在なさげにその一連の動作を目で追っていた。


「あのぉ、こんな時間からどこに行くんですか?」

「よもぎ、ちょっと待ってろ。着替え、君の着替え! コンビニまでひとっ走りしてくるから」

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