第6話 ごめんなさい、ごめんなさい

 ヒロキが住む部屋は一階の一番手前に位置していた。居室はアパートにしてはめずらしいフローリング張りの八帖間、最小限の家具にシングルベッドと小さな机を置いても部屋の中心にちゃぶ台を置けるだけのスペースが確保できている。入口っぱたではあるが、ひとり住まいにしては十分に広いこの部屋を彼は気に入っていた。


 ヒロキは部屋に戻るなり、何はさておき冷蔵庫を開ける。とにかく夕食だ。そう、彼は一連の出来事から我に返った途端、すっかり腹ペコになっていたのだった。


「とりあえず今日もまた鍋でいいか」


 そうつぶやきながら彼は冷蔵庫に常備している白菜にほうれん草、それと冷凍しておいた豚肉を手際よく取り出す。続いて吊戸棚から小さな土鍋を取り出してそれに水を張る。肉と野菜を煮込んでいる間にこれもまた冷凍しておいたご飯をレンジで温める。ひとり暮らしを始めて三年、テキパキと慣れた手つきであっという間に簡単な夕食が出来上がった。

 ちゃぶ台に鍋敷き、そこに熱々の鍋を置く。

 フタを開けた途端に勢いよく湯気が立ちのぼる。

 今夜の、というかこの季節のヒロキの夕食は手軽にできるこんな常夜鍋がほとんどだった。


「おっと、ポン酢、ポン酢」


 鍋と言えばポン酢だ。ヒロキは出し忘れたポン酢と小鉢を取りにキッチンに戻る。そしてそれぞれを手にして再び居室の前に立ったとき、彼は思わずその場で固まってしまった。

 ちゃぶ台に並べられた鍋とどんぶりを前にして、それを興味深げに見つめている人影があった。薄っすらとぼやけているが中学生か高校生だろうか、それが女の子であろうことはヒロキにもすぐに判った。


「お、女の子……?」


 不意に出たヒロキの声に気づいた少女らしきモノもこちらに顔を向けたままその場に固まっていた。

 ヒロキの身体からだから力が抜ける。同時に手にしていた小鉢もポン酢のビンも彼の手からするりと滑り落ちた。


 コトン……コトン……。


 少女はその音にビクッと肩を震わせると、そのままふわりと消えてしまった。


「お、おい!」


 ヒロキは落とした物もそのままに部屋の中のみならず窓の外までも見回してみたが、そこに人の姿はなかった。呆然とするヒロキを尻目にちゃぶ台の上では食べてくれるのを今か今かと待ち続ける鍋がぼんやりと湯気を立てていた。



 あれほど空腹だったヒロキであるが、今ではすっかり食欲は失せてしまった。しかしせっかく作った料理を捨てるなんてことはできないし、なによりここで食べておかねば深夜に空腹になることは明らかである。彼はちゃぶ台の定位置にどっかりと腰を下ろすとテレビもつけずにひとり静かに食事を始めた。


 まずは小鉢にポン酢を少々。なんだかよくわからない不思議なことがあったけど、とにかく冷めないうちにさっさと片付けてしまおう。さて、どれから手を付けようか。

 ヒロキは小さな鍋を覗き込んで熱々の具材を見繕う。白菜もほうれん草もシャッキリ感を残したちょうどよい感じに仕上がっている。薄切りの豚肉も食べごろだ。やはり最初は肉からだな。

 するとそのとき、ヒロキは鍋を覗く自分の頭に自分以外の気配、おそらくそれは髪の毛があたっているであろう感触を感じた。


 咄嗟に手を止める、そして考える。

 確かめたい、この正体を。

 でも、ちょっと怖い。

 いや、待てよ、怖い……怖いか?


 たったひとりの部屋で感じる自分以外の気配と感触だったが、しかしそのときのヒロキには恐怖感はまったく感じられなかった。


 よし、決めた!


 ヒロキは意を決して顔を上げた。するとそこには両の耳元に小さなおさげを結った黒い髪の少女が鍋の中を覗き込む姿があった。今時にしては野暮ったいデザインの制服を着た少女、ただ普通と違っているのはその姿が半透明なことだった。


「へえ、男の人の料理なのにお野菜もしっかり入ってるんですね……あっ……」


 半透明の少女がおもてを上げる。するとそこには小動物、いや子猫のようなクリっとした目があった。

 ほんの一瞬ではあるが見つめ合う目と目。


「あ、あ、ご、ごめんなさい、ごめんなさい」


 ヒロキを前にしてあたふたしながら二度三度と頭を下げると、少女は再び彼の目の前から消えてしまった。

 今日体験したタイムスリップらしき現象、そして今、目の前に現れてはすぐに消えた少女、それらの意味がつながらないまま疑問だけが渾然一体となってヒロキの心を包み込んだ。

 耳がツーンと痛くなるような静けさ。ヒロキは少しでも気持ちを紛らわせようとテレビのリモコンスイッチを押した。チャンネルはどこでもよかった。そして流れている番組を見るともなくかけっ放しにしたまま彼は一気に食事をかき込んだ。


 その後もヒロキはあの少女のことが気になって仕方がなかった。こうして洗いものをしている間にもまた現れるのではないか。ひょっとしたらテレビを観ているかも知れない。そんなことを思いつつ手を止めては居室の方ををチラチラと確認してみる。しかしそこには誰も居らず、観る者がいないテレビからは歌番組のアップテンポなビートが流れているだけだった。


 それからもテレビを流したままにしていた。とにかく何か音が流れていないと不安なのだ。ヒロキは床の上で横になると天井を見つめつながら今日のこれまでの出来事を思い返してみる。タイムスリップ、見知らぬ少女……そしていつしか彼は気だるい疲労感とともに深い眠りの中に沈んでいった。


 テレビからはバラエティー番組の賑やかな笑い声が聞こえている。そんな喧騒をよそに寝息をたてているヒロキ、その枕元に小さな光の粒が集まってきた。やがてその中に少女の姿が浮かぶ。

 ヒロキを見下ろすその顔には安堵の表情が浮かんでいた。


「見つけた」


 少女は両手を自分の胸に当てると静かに目を閉じた。するとその姿は再び滲んだ光の粒となって寝ているヒロキの全身を包み込む。そしてそのまま彼の身体からだの中に吸い込まれていった。


 たったひとりの部屋の中、少女が消えたその後にはヒロキの静かな寝息だけが聞こえていた。

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