第5話 帰還?

 激しい動悸とイヤな汗、まだ肌寒い二月の黄昏時だったが彼が着るセーターの下はじっとりとした熱気と湿気を帯びていた。


「なんだよ、この展開は。異世界かよ、時空の歪みかよ」


 とにかく冷静になれ、考えをまとめるんだ。ヒロキはその場で大きく深呼吸した。そしてこれまでの自分を振り返ってみる。

 神社を出てから必死にペダルを漕いだ。不気味な雲は相変わらずだった。そう言えば街の景色に不思議な違和感があった。人の姿も車すらも見ていないし、商店街を横切るときも人っ子ひとり見かけることがなかった。

 そんなことに気づいた瞬間、ヒロキの全身を寒気が襲った。軽い目眩とともに頬骨のあたりが痺れに包まれる。ますます高鳴る鼓動と荒ぶる呼吸。ヒロキはぐるぐる回る頭の中で必死になって考えた。

 そして彼はひらめく。そうだ、金縛りだ。金縛りに遭ったときにはとにかく声を出すんだ、そうすれば解けて身体からだが解放されるのだ。これは、これは金縛りではないけど、同じようなもんだろう。

 そしてヒロキ大きく息を吸い込むと、続いて力いっぱいに叫んてみた。


「っざけんな――――っ!」


 人気ひとけのない住宅街にその声がこだまとなって残響する。しかしそれで何かが変わるわけではなく、あたりは静まり返ったままだった。



 声を上げたおかげで気持ちにひと区切りがついたのだろう、これからすべきこと、その考えが少しずつではあるがまとまってきた。

 とにかく周囲をもう少し探ってみよう、そして人を見かけたならばとりあえず声をかけてみよう。そう考えたヒロキはべダルに足をかけてその場所を後にした。


 今さっき来た道を戻ってみるが、今度は途中で横切った商店街を左に曲がってみる。そのまま真っすぐ進めば駅に着くはずだ。

 整然と並ぶ街路灯が暖色系の光を放つ。しかしその街並みはやはり彼が知る商店街でなかった。ラーメン店が喫茶店だったり、タイル張りのマンションが建つ場所にはモルタル造の看板建築を構えた瀬戸物店があった。他にもリフォーム会社の事務所がかわいい看板のファンシーショップだったり、長いこと空き店舗だった場所には見たこともない筐体が並ぶゲームセンターがあった。どの店もシャッターは開いていて照明も点いている。しかし店員も人影もなく、その光景はまるで映画のセットや書き割りのようだった。

 駅に近づくにつれてヒロキが抱いていた不安は現実のものとなっていく。再開発で高架になって久しいN市駅であるが、今、彼の目の前にあるのは地上を走る線路と踏み切りだった。


「タイムスリップかよ!」


 ヒロキは吐き捨てるような声を上げると、カンカンと警報機が鳴り続けたまま一向に電車がやって来ない踏切から身を乗り出してそこから見える駅のホームに目を向けてみた。

 はたしてそこにも人影はなかった。

 もしタイムスリップしたのだとしても人はいるはずだ。しかしここには人がまったく見当たらない。とにかくこのわけのわからない状況から抜け出す方法を見つけなければ。

 ヒロキは今日これまでの行動をもう一度振り返ってみた。

 昼前に部屋を出て大学に……いや、学内では特に変わったことはなかった、おそらくN市駅に着いてからではないだろうか。


 駅に着く。

 改札を出て駐輪場に向かう。

 自転車を出す。

 課題も済んだし天気もいいし神社に寄ってみよう。


 ここまでにおかしなことはなかったはずだ。やはり神社だ。神社に着いてからすべてがおかしくなったのだ。


 自転車を停める。

 御神木にあいさつする。

 石段を上がる。


 そうだ、ここだ、ここからだ。そこにあるはずのない昔の御神木があったじゃないか。そうだ、あれだ、あれからだ。


「よし、戻ってみるか」


 そこに何かヒントがあるかも知れない。ヒロキは商店街を引き返して再び神社を目指した。

 やがて下り坂の下にコンクリート製の鳥居が見えてきた。さあ、さっきと同じ行動をしてみよう。

 ヒロキは自転車を降りて巨木を見上げる。するとそこにあるのはすっかり老木となった現在の御神木だった。

 目の前の石段を駆け上がると、そこではすっかり夕闇に包まれた境内が拝殿に下がる提灯のぼんやりとした明かりに照らされていた。そしてあの不思議な御神木あった場所にはA型バリケードに囲われた茶色い土が露出する伐採跡があるだけだった。

 ヒロキは空を見上げる。するとそこにはすっかり晴れ渡った星が瞬く冬の夜空が広がっていた。


「戻れた……のか?」


 半信半疑で石段の上から眼下を見下ろす。ちょうどそのとき、ふもとにそびえる御神木の向こうを一台の車が横切るのが見えた。

 ヒロキは急いで石段を駆け下りると駅を目指して自転車を走らせた。途中、買い物袋を提げた幾人かとすれ違った。駅に近づくと高架線の上を走る電車の明かりが流れているのが見えた。夜空に浮かぶ駅ビルのシルエットも見える。それは彼にとって見慣れたいつもの駅前の光景だった。

 ヒロキは再び帰路を急ぐ。シャッターと飲食店ばかりになってすっかりうらぶれた風情の商店街にLED化で白く明るくなった街路灯、そのすべてがいつもの光景だった。そして道祖神がある角を曲がって幼稚園の手前を左に入ると、そこには見慣れたアパートがあった。


「やっと、やっとダンジョンから抜け出せたぜ」


 安堵のあまり、ヒロキの視界は少しだけ滲んで見えた。同時にわけもわからず無性におかしくなって、自転車に跨ったまま潤んだ目を拭きながら笑い声を上げた。


「へへっ、ざまあみろってんだ、へへっ」


 あたりはすっかり暗くなっていた。腕時計に目を落とすと時刻は午後七時、ヒロキは安堵に包まれると同時に無性に腹が減っていることに気付いたのだった。

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