第7話 白い少女

 ヒロキはペダルを漕いでいた。ただひたすらに漕いでいた。

 暗い空の下、周囲を暖色に照らす少し古びた街路灯、そしてその空間には人も車もまったく見当たらないことから自分が再びあの空間に迷い込んでいることを彼はハッキリと認識していた。


「これは明晰夢か……それにしても、いつの時代なんだよ、ここは」


 やがて彼が進む先、その視界の端に白い球体が映る。まるでヒロキをどこかへ誘導するかのように右に左にと寄り添いながら飛んでいる。やがてそれは形を変えながら膨張し始めて、ついには目の前で弾けるように拡散したかと思うと今度は急速に人の形に収斂しゅうれんした。

 白い人影の輪郭に濃淡が現れ始める。ひざ丈のスカートとブラウスにリボンタイとブレザー、それはまさに学校の制服そのもの、その姿はヒロキがさっき部屋で見たあの半透明の少女そのものだった。

 白い少女となったその影は今までよりも速度を上げて前方を指差しながらヒロキを誘導する。


「き、君はさっきオレの部屋に現れた……おい、待て、待てよ!」


 ヒロキは少女を追う。ただひたすらに追う。そして二人がたどり着いたその場所はヒロキが住むアパートの前だった。

 白い少女は重力を感じさせない軽やかさでふわりと着地すると、こちらに振り向いてヒロキをエスコートするように手を差しのべた。

 無邪気に微笑む少女に向かってヒロキも手を伸ばしてみるが二人の距離は縮まることがなかった。あと一歩のもどかしさを感じながらヒロキが自転車を降りて少女の手を掴もうとしたその瞬間、少女は粒子が弾けるように霧散して彼の前から消え失せてしまった。



 ヒロキは目覚めた。フローリングの床で寝ていた身体からだはすっかり冷えて固まっていたが、しかし彼の内腿と足首にやや熱を帯びた疲労感が残っていた。ヒロキは寝転がったまま壁にかかった時計に目だけを向ける。時刻は午後九時を指していた。


「今のは夢だったんだよな。でも脚はやたらとだるいんだよなぁ……」


 そんなことをぼんやりと考えながら流しっ放しのテレビに向かって首だけを動かして視線を移す。ちゃぶ台の天板で三分の一ほどが遮られた画面の中ではアイドルユニットが踊っている。そしてその傍らには、こちらに背を向けてテレビを食い入るように見つめる少女の後ろ姿があった。


「またあの子か」


 白く半透明なその少女は夢と同じく学校の制服姿だった。この光景は現実なのか、はたまた夢の続きなのか、両サイドに小さな三つ編みが揺れる肩より少し長いセミロングの髪をヒロキは寝ぼけた定まらない視点でぼんやりと眺めていた。

 ヒロキは深く考えることをあきらめた。

 神社での怪異から突然のタイムスリップ、今見たばかりの不思議な明晰夢、そして目の前のこれである、次々と起きる理屈では説明できない出来事にヒロキは自分はモノノケにでも憑かれてしまったのだろうと思うことにした。

 そんな寝ぼけまなこでヒロキがその白い後姿を眺めるともなく眺めていると、少女はいきなりこちらに振り返って問いかけてきた。


「ねえ、あれってにゃんにゃんクラブ?」


 ヒロキは返答に窮した。そもそも、にゃんにゃんとはなんだ。そんな彼の困惑を意にも介さず少女はたたみ掛けるように続ける。


「にゃんにゃんクラブ知らないの? あのにゃんにゃんだよ? あ、やっぱ違うのかなぁ、誰なんだろう……でもでも、衣装がすっごくかわいいよね」


 起き上がることすらも億劫になっていたヒロキは寝転がったまま面倒くさそうに答える。


「それはにゃんにゃんなんとかじゃなくて、最近人気が出てきたユニットだよ。名前は……忘れた」

「え――っ、信じらんない、それを聞きたかったのに」


 少女は残念そうにそう言うと再びプイっとテレビ画面に目を戻す。立て続けに起きた不可解な現象にすっかり慣れてしまったからだろう、ヒロキはこの奇妙な状況に驚くこともたじろぐこともなく冷静でいられることが自分でも信じられなかった。こうなったらもうなんでもありだ、彼は意を決して少女に向かって声をかけてみた。


「ねぇ君さ、妙にこの部屋に馴染んでるみたいなんだけど」


 少女はヒロキの声に応えもせず真剣にテレビに見入っていた。耳元に下がる小さな三つ編みが流れるリズムに合わせてゆらゆらと揺れている。ヒロキは自分を無視してテレビを見続ける少女の態度に多少のイラつきを覚えながらもう一度呼びかけた。


「おい、何かリアクションくらいしろよ。てかさ、どこから入ったんだよ君は」


 少女の後姿は相変わらず画面の中で踊るアイドルユニットのリズムに合わせて揺れている。ヒロキはまだ固まったままの重い上体を起こしながらまくし立てた。


「なあ、シカトはないだろう。せめて名前くらい名乗ってもいいんじゃないか。そもそもここはオレんだしさ、勝手に上がりこんでるのは君だろう」


 ちょうどそのとき流れていた曲が終わった。ユニットのメンバーが手を振りながら舞台から袖へと去っていく。そして画面はCMへ、すると少女はフゥとひと呼吸してからこちらに振り向いた。

 くりっとした子猫のような瞳の向こうにテレビの映像が透けて見える。


「今のグループって初めて見たけど、踊りも衣装もかわいかったね」


 そして少女は身体からだをこちらに向けると、あらためて座りなおした。


「あまりにもかわいかったので真剣に見ちゃいました。よもぎ、集中しちゃうとダメなんです、ごめんなさい」


 少女がペコリと頭を下げる。それに合わせて耳元の小さな三つ編みも合わせて揺れた。


「あっ、名前は『よもぎ』って言います、よろしくです」


 無邪気に話す少女の姿は白く半透明でその向こうにあるテレビの映像がぼんやりと透けて見えていた。それにしても不思議な光景である。もしやこの子は幽霊なのか。しかしこの部屋が事故物件だとか心理的瑕疵かしがあるだとか、そんな話は聞いてなかったし、何よりここに暮らして三年、心霊現象とはまったくの無縁だ。

 ヒロキが訝し気な目を向けていると、よもぎと名乗るその少女はまるですべてが当たり前の出来事であるかのように平然と話し始めた。


「よもぎ、覚えてるのは……」


 少女は何かを思い出そうと視線を天井に向ける。


「覚えてるのは名前と……あと高校生です。それくらいかな。あとは、ほとんど覚えてないんですよね、へへへ」


 少女はヒロキを見て照れくさそうに笑った。


「へへへ、って……なんなんだこの展開」


 ヒロキはあどけなく微笑む半透明の珍客を、ただ呆然と見つめながらぼそりとそうつぶやくのが精一杯だった。

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