平凡と殺戮

@SO3H

平凡と殺戮


「フフッ……まさかあの時のわっぱがこうも面白いものになるとはな」

 両の脚を失い、角を折られ、地に臥して天を睨みながらも、女は可笑しそうに真っ赤な唇の端を釣り上げた。

 私は石畳に引き倒した鬼女きじょの肩を踏みつけ、血で汚れた鉈をその首に添えた。

「私、感謝してるのよ貴方に」

 心からそう思っている。だから精一杯慈愛を込めて微笑んだ。けどたぶん失敗だ。目が爛々としているのは自覚できるし、唇はたぶん足元の鬼女よりもっと狂気に歪んでいた。あの日からずっと追い続けた彼女を遂にこの手で壊す刻が来た。甘美な悦びで全身が震える至福の瞬間だった。

「ククッ、感謝ときたか。酔狂な娘だ」

 息も絶え絶えなのに相変わらず笑みを浮かべるその顔は、あの日と何も変わらない。




 私はあの頃、ただの中学生だった。

 まだ真新しいセーラー服の硬さに慣れない頃で、放課後を共に過ごす友達もいなかった。

 代わりに家と学校の間にある古い神社で、野良猫と遊ぶのが好きだった。

 朝起きて神社の前を通って学校に行き、ぼんやりと授業を受け、母の作った弁当の玉子焼きにネギが入っていたと喜び、うつらうつら授業を受け、神社に寄って家に帰る。

 なだらかで変化の乏しい、何ら不自由のない日々。両親がいて衣食住にも勉学にも困らない。平凡だが不満もなく、穏やかな日常を持つことが、幸せなのだと思っていた。


 その日も私は、ところどころ欠けた石段を上っていた。一段一段踏むたびに、教科書なんて一冊も入ってない学生鞄の中で、缶詰がぶつかる軽い音がする。猫たちにあげるものだ。

 風が木を揺らす以外はいつも通り静かだ。階段の頂上には色褪せた鳥居があって、その先の石畳にしゃがんで呼べば猫たちがやってくる。そう疑っていなかった。


 最後の一段に足を乗せた時、目の前にあったのは赤だった。次いで大きくぽっかり開いた黒。

 石畳を染めるのが血液だと気づく。

 誰の?決まってる。そこに散らばってるあの子たち。

 なぜ、誰がこんなことを?

 頭の中を疑問と答えがぐるぐる回る。日常が破壊された凄惨な光景から、逸らしたいのに目が逸らせない。瞳は見開かれ、唇は震える。それは紛れもなく現実だった。

 後ずさり、段差につまづいて尻餅をついた。拍子に鞄が肩から落ち、石段にぶつかる。缶がうるさい音を立てた。


 赤い池の向こう、本殿の前に広がる黒は、空間を切り取ったかのような大きな穴。

 さっきは気づかなかったけれど、その中から金盞花色の瞳がギョロリとこちらを向いている。




わっぱ、見たな?」




 背筋にヒヤリとしたものが走った。

 次の瞬間には、その金盞花色のたまは腰を抜かした私の目に触れそうな程近くにあった。

 腹の底から何か、開けてはいけない感情が迫り上がってきた。その表面を恐怖で覆い、かろうじて表に出ない何か。

 殺される。

 本能も理性も全力でそう訴えた。だが身体は指先ひとつ動かない。ただ光る瞳と、黒く艶のある角、眼前に迫る長く伸びた爪を凝視する。

 変化のない穏やかな日常よ、さようなら。

 心の中で唱えかけたその瞬間、一陣の風とともに脅威が消えた。

「……へ?」


 気づくと大きな背中の男が鬼女の代わりに私の前にいた。風が木の葉を拐い、男の袴を翻らせる。私は夢でも見ているのかと、今更思った。

 鬼女を吹っ飛ばしたおじさんは、その辺にいそうな顔立ちなのに、眼光だけやたらに鋭かった。

「立てるか?」

 視線だけ寄越して私にそう聞いたけど、男は答えも聞かずに鬼女に追い討ちを仕掛けに前に跳んだ。

「やれやれ。これはちと厄介だな」

 鬼女の美しい黒髪が、男の振りかざす鉈を避けてなびく。爪で受け止めた鉈を流して、鬼は羽のように軽く跳躍した。そのまま追う男を引き離し赤く染まった石畳を飛ぶように駆けると、再び黒い穴に滑り込んだ。

「命拾いしたな、童」

 楽しそうにそう捨て台詞を吐き、右手を宙にかざす。応えるように穴は小さくなって、最後には鬼と一緒に消えてしまった。


 後に残されたのは、凄惨な動物殺しの現場。アレにとっては遊びだったのか食事だったのか、そんなことはわからないが、ただただ死が横たわっていた。

「大丈夫か?」

 今度は私に向き合って、男は改めて手を差し伸べる。

 大丈夫か?

 大丈夫な訳がなかった。昨日まで生きていた命が呆気なく散り、あと一息で自分も死ぬところまで鋭い爪が迫り、目の前で鬼と人間が戦うのを見た。

 こんな気持ちは初めてだった。平穏な毎日では感情は大きく動かず穏やかで、それこそが幸せだと言って聞かされてきた。何事もなく、平和に暮らせることが一番だと。

 正反対のこんな状況で、私は全身の血が沸き立つような高揚と、脳が蕩けるような甘い狂喜を感じていた。


 黙っている私がショックを受けていると勘違いしたのか、男は猫の埋葬と石畳の掃除を私に手伝わせた。不器用なこの男は、優しく慰めるなど出来なかったのだ。

 私は悦びを抑え男に従った。そして、処理が全て終わった時、弟子にしてくれと頼んだ。

 これからもこんな歓楽を、いや次は自分の手であの熱狂を味わいたかった。


 それからは戦いの毎日だった。鬼を追い、狩る。その度にこちらも無事では済まなかった。慣れると怪我は減ったけれど、衝動任せに戦い過ぎて師匠によく怒られた。その師匠ももういない。

 師匠は最期まで私を、友達の野良猫のために正義と復讐に燃える馬鹿だと思っていたはずだ。時折漏らす「才能がなければ置いていったのに」という言葉からは、苦々しい悔恨が窺えた。


 そんな良いものではない。私は心から戦いを楽しんでいたし喜んでいた。

 特に今足元にいる鬼女との戦いは格別だった。どうやってギラついた瞳を曇らせるか、漆塗りのような美しい角は折ったらどうなるのか、相対する度唆られた。同時に彼女も私に明確な殺意をぶつけ、笑う。いつも彼女は余裕を残して逃げた。私はそれが悔しくて、けれどどこかほっとして、またその首を狙い彼女を追った。

 指は飛び、右目は抉れ、肋は何度も折れた。両親とは生き別れ、今どうしているかもわからない。だが。

「幸せだったわ私。貴方と殺し合う日々は、この上なく充実してた。普通に生活していたら味わえないスリルと興奮と……幸福を、ありがとう」

 うっとりと、私は鉈を振り上げた。

「フフッ……幸せか。ならわたしを殺せば貴様は不幸になるか。ククッ……なら、殺されてやるのも悪くはないか」

 その言葉を最後に鬼の首は飛び、石畳はあの日のように真っ赤に染まった。




「さようなら。天敵いとしいひと

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