陽が沈んでしばらく経ってから、ヨウコは帰ってきた。

 どこか怯えたようなその表情でわたしは悟った。すべてを聞いてきたんだと。

 どうして教えてくれなかったの、と硬い表情のままヨウコは尋ねた。どうして隠していたの。

 【わたしはうそつきだから】、とわたしはいった。

 ヨウコは首をふった。ちがうよ、そうじゃないよ。そしてぎゅっとわたしの両手をつかんだ。ヨウコの手は、寒さのせいですっかり冷たくなっていた。美冬のせいじゃないよ、とヨウコはいった。美冬が悪いんじゃないよ。

 ありがとう。わたしはそうささやく。にぎりしめるヨウコの手をほどいて、小刻みに震えるそのからだを抱きしめた。シチューしかないけど、食べなよ、あたたまるよ。そんなに冷え切ったら、ヨウコまで死んじゃうよ。

 震えながらもヨウコは、ちいさくうなずいた。


   ❅   ❅


 月の光に歪みそうなときには、どうしたらいいんだと秋人はいった。

 美冬は目を閉じて、すこし考える。

 風がふいて、カサカサと木の葉がこすれる音が聞こえる。季節は秋だ。美冬は目を開いて言葉をつむぐ。冬になればそらは厚い雲におおわれて、月の光を隠してくれる。【冬は狂気を取り除いてくれる季節】。歪んでしまったものを、すこしずつ戻していく。だから月の光に歪みそうになったら、冬を待つのがいちばん。

 でもそれじゃ、星の光も見えないぜ。

 そのかわりに雪が降る、と美冬はいう。【雪は星の光のささやかなかけら】。見えないつながりを断ち切らないように、星は雪のかたちを借りてひとびとを励ます。だからひとは舞いちる雪をながめると心がはずむ。ささやかな、星のエールを感じとるから。

 雪か、と秋人はつぶやいた。納得したようにちいさくうなずく。おれも雪は好きだ。

 わたしも、と美冬も同意する。

 おれん家のねこも雪みたいだから、みんな好きなんだな、と秋人はいう。帰ったらなでてやろう。

 いいな、と美冬はうらやましがった。

 じゃああしたにでも遊びに来いよ、と秋人はいった。いくらでもなでさせてやるよ。

 そうするよ、と美冬はいった。

 それが最後の会話だった。


   ❅   ❅


 ヨウコは朝食もとらず、朝から机にむかっていた。

 手紙を書いているらしかった。

 わたしは塔にのぼりぼんやりと雪をながめていた。ぶあつい雲のむこうにあるはずの星の光を考えていた。ときどき町かどに秋人の姿を見つけた。どれだけおおきな声で叫んでみたところで、その言葉は秋人には、とどかない。

 部屋に戻ってもヨウコはまだ手紙を書きつづけていた。真剣に、思いをこめて、ヨウコはペンを走らせていた。

 秋人に手紙を書いてみようか、という考えがうかんで、でもすぐにその思いつきを振りはらった。そんなことをしてみたところで、それはただの一方通行で、きっとわたしをどこへも導いてはくれないだろう。

 それからの数日間、思い起こせばいつもヨウコは手紙を書いていた。食事をしたり、お茶を飲みながらおしゃべりをしたりする時間以外は、ほとんどヨウコは机にむかっていた。なにを書いているのか、誰に書いているのかは、けっきょく話題にあがらなかった。なんとなく、それを聞くべきではないという雰囲気がふたりのあいだに共有されているようだった。

 【それにわたしもとくに気に留めていたわけでもなかった】

 ヨウコがやって来て五日めに、この天文台を訪ねてきたときとおなじくらい唐突に、ヨウコは姿を消してしまった。いつの間にかいなくなって、そして夜が更けても帰ってくることはなかった。【まあ、仕方ないかとわたしは思った】。うそつきといつまでもおなじ部屋で暮らすことに、ヨウコはきっと、耐えられなくなったのだろう。

 ひとりで食べる夕食が、ひどくひさしぶりに感じられた。【べつにつらいとは思わなかった】。いつもとおなじに戻っただけ。わたしはいつもひとりきりだった。それが当たり前のことだった。当たりまえの日常がまた、やって来ただけだった。

 うまく寝つけなかったせいで、陽がのぼってもまだわたしはベッドのなかでまどろんでいた。荒っぽくドアをノックする音が、わたしの意識をかき乱した。ふらつく足どりで玄関までいき、ドアを開けると、そこには見知らぬ三人の男が立っていた。

 臨時政府の職員だと、彼らは名のった。


   ❅   ❅


 ヨウコは偽名なのだと彼らはいった。ほんとうの名前は、〈春川桜子〉。

 彼女は指名手配中のお尋ね者だそうで、滞在中の彼女のことを、彼らは根ほり葉ほり尋ねてきた。【よく覚えていないです】とわたしはいった。【無愛想な子で、あんまり会話もなかったから】。

 彼女がなにか残していったものはないか、と彼らは尋ねた。【なにもないです】とわたしはこたえた。【いつの間にかいなくなって、彼女はなにひとつ残していかなかったですね】。

 春川桜子はどんな悪いことをしたのかとわたしは聞いてみた。それは知らなくていいことですと彼らはいった。まあ、おおまかにいえば政府転覆を企てていたのだと、そう理解してもらえれば十分です。

 政府転覆、とわたしはつぶやいた。思わず吹き出しそうになるのをこらえながら。

 彼らが去ったあとで、わたしは引き出しから封筒を取り出した。その存在には昨夜のうちから気づいていたけれど、封を開ける勇気がなかった。

 紙が何枚も折りたたまれて、分厚くなったその封筒をわたしはペーパーナイフで丁寧に開いた。ヨウコの几帳面な文字がびっしりと書きこまれた七枚の紙片があらわれた。わたしは塔にのぼり、からだを丸くしてその一枚一枚に目を通していく。

 【わたしはうそつきです】とはじめに書かれていた。ほんとうの名前も明かさないまま黙って出ていってしまったことをどうかお許しください。美冬といっしょにすごせた時間を、わたしはとても愛おしく思います。

 そして約束を果たせなかったことを許してください、とヨウコは書いた。つぎの文章が目に飛びこむ。【わたしはいまからうそを書きます。ここからつづく文章はすべてわたしが作りだしたうそです。〈空想の物語〉です。でもそれが、美冬をここではないどこかへ導いてくれることを、信じています】。

 わたしは二枚目を読み始める。


   ❅   ❅

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