秋人がわたしのうそを聞いてくれることはもうなかった。わたしは静かにそうつぶやく。町かどで見かけても、声をかけてくれることもない。わたしが秋人にできることなんてなにもない。それでもわたしには、秋人を見すててこの町を出ていくことは、考えることができないな。

 夕食のあとでヨウコはお茶をいれてくれた。旅先で見つけためずらしいお茶だそうだ。

 その事件以降、秋人さんとお話をしたことは? とヨウコは尋ねる。

 わたしは首を横にふる。

 いちども? ヨウコは念を押すように問いかける。

 いちども、とわたしはくり返す。

 良い香りのするお茶をすすり、カップの液面を長いこと見つめたあとで、ヨウコはわたしの目を正面から見すえてはっきりという。それはよくないです。美冬は秋人さんと、ちゃんと話し合わなくちゃならない。たしかにそれは凄惨な出来ごとだったにちがいないけれど、美冬も、秋人さんも、ちゃんとそこから立ち直らなくちゃならないです。

 そのためには、やっぱりちゃんと、話し合わなくちゃならない。カップをテーブルに置き、うつむきながらもういちど、ヨウコはそうつぶやいた。


   ❅   ❅


 殺されたねこにはちゃんとした名前がついていたけれど、美冬は勝手に〈雪ねこ〉と呼んでいた。真っ白で、まるで雪そのもののようなあわい輪郭をしていたから。

 でも、雪とちがってあったかいぜ、と秋人は反論する。雪なら溶けちゃうよ。

 【溶けない雪だってあるんだよ】と美冬はいう。

 ほんとうに? 秋人は目を丸くする。疑わしげに言葉をつづける。でもそんなものがあったら、雪がどんどんつもりつづけて、世界がいつか雪に埋もれちゃわないか?

 そうならないために、世界には雪ねこがいるんだよ。美冬は雪ねこの背中をなでながらそういった。溶けない雪をからだに集めて、世界が雪だらけになるのを防いでくれているんだよ。

 お前、そんなすごいやつだったのか。秋人は雪ねこを持ちあげて、氷のように青みがかったその瞳をじっと見つめる。なああぅ、と雪ねこは不満げにそれにこたえる。

 だから大事にしてあげなよ、と美冬は秋人に忠告する。【雪ねこになにかあったら、世界は溶けない雪であふれて、なにもかもが埋まっちゃうから】。

 なにもかもが埋まっちゃう、と秋人は雪ねこを離してその言葉をくり返す。それはすごく怖いことだな。

 すごく怖いことなんだよ。美冬は空を見あげてそうつぶやく。上空を埋める雲はまだ、雪を降らすそぶりを見せてはいなかった。


   ❅   ❅


 朝食を食べながら、もう一泊だけさせてもらえないかとヨウコはおずおずと尋ねた。

 一泊といわず、何泊でもとわたしはこたえる。たいしたお構いはできないけれど。

 ありがとう、とヨウコはわらう。そして窓のむこうの雪を見つめ、決意をこめたようにつぶやく。秋人さんに会って、話を聞いて、ちゃんと美冬と仲直りができないか聞いてみるよ。

 わたしはちいさくわらう。【わたしはうそつきだから】とわたしはつぶやく、【わたしと仲直りしたいなんて思うようなひとはこの世界にいないよ】。

 わたしだって根本的にうそつきな人間だよ。ヨウコはどこかむきになったようにいう。わたし以上にうそつきな人間なんて、いないんじゃないかって思うくらい。

 わたしがいうのもなんだけど、この言葉って矛盾してるよね。話の矛先をそらすためにわたしはそうつぶやく。【わたしはうそつきです】。その言葉を信じることも信じないことも、論理的にできないわけで。

 まあ、古典論理ならそうだよね。ヨウコは意外な切り口からその話題をひろった。絶対的な真偽の存在を仮定しない〈直観論理〉か、真偽そのものにグラデーションを導入する〈ファジー論理〉なら、そのパラドックスは回避できるよ。どちらも〈排中律〉を取り除けるから、矛盾に対する強度の高い論理体系だね。

 わたしは目をパチクリさせて、ヨウコの顔をそっと見つめる。理解できたとはいいがたいその言葉を思い起こしながら、わたしは尋ねた。ヨウコってもしかして、学校とかに通ってた?

 まあ、昔はね、とつぶやいて、バツが悪そうにヨウコはわらった。


   ❅   ❅


 天文台の塔からは、一望、とまではいかないけれど、町の様子をながめわたすことができる。

 昼ごろ、町の中心部の通りをヨウコが足早に歩いているのが見えた。そしてそのすすむ先に、ぼんやりとした足どりの秋人の姿が見えた。わたしは落ち着かない気もちでその成りゆきを見まもった。だんだんと近づくふたりの距離が、ほとんどゼロになって、完全なゼロになって、そしてまた、ふたりの距離は離れていった。

 ヨウコは秋人に気づかず通りすぎてしまった。

 【そのひとなのにとわたしは思った】。


   ❅   ❅


 美冬は星が大好きだよな、と秋人はいった。いつも星ばっか見てる。

 そうかな、と美冬はいった。そして夜空を見あげ、ちいさくつぶやいた。そうかな。

 そうだよ、と秋人はなぜか自慢するようにいった。

 アキは星は好きじゃない? 美冬は尋ねてみる。

 おれは月のほうがすきだ、と秋人はいった。だって月のほうがでかくて明るい。

 月が好きなんてよくないよ、と美冬はつぶやく。

 どうして?

 月はひとを狂わせるから、と美冬は言葉をつむぐ。【〈怪物ムーンシャイン〉は狂気を呼ぶ。本来の自分を歪めて、ありもしないものを生み出してしまう】。

 どうやって月がひとを狂わせるんだ? 秋人は興味深そうにそう尋ねる。

 【月は星の光を歪めてしまうから】と美冬はこたえる。ゆっくりと息を吸いこみ、その論理をひとつひとつ構成していく。星はひとの魂と結びついている。どの星もそれぞれ、誰かの魂とつながっている。星は光をはなつことで、魂とのつながりを主張している。〈われにむかいて光る星あり〉。だからひとは星を見ると、自分とつながりのある星の光をながめると、おだやかな気もちになる。心の平静を得ることができる。

 【〈怪物ムーンシャイン〉はその光を歪めることで、ほんとうの自分を失わせる】。だから強すぎる月の光には、十分に気をつけなくちゃならない。

 なるほど、と秋人は感心したようにつぶやく。その話を受けいれて、口を開く。おれにも、美冬にも、おれの両親にもみんな、自分の星があるんだな。

 そのとおり、と美冬はいう。

 月の光に歪みそうなときには、どうしたらいいんだ。秋人はそういって、真剣な目で美冬を見つめる。


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