雪を溶く熱【企画参加作品】

あかいかわ


 この作品を開いてしまったあなたに伝えておきたいことがある。

 【わたしはうそつきです】

 もちろんこの言葉は一分の隙もなく矛盾する。〈クレタの嘘つき〉と同様、自己言及の甘苦いパラドックスに絡みとられ、真偽の判定は即座に闇に溶けてしまう。この言葉を信じることも不可能だし、信じないことも不可能なのだ。だからこの公理を出発点としたすべての物ごとは矛盾をはらみ、なんの意味ももたらさない。

 それでもわたしはくり返す。【わたしはうそつきです】。塔によじのぼり見えない星を見つめながら、わたしはきょうも、ひとりその言葉をくり返す。


   ❅   ❅


 うそをつくのが大好きな子どもだったから、大人たちはわたしを、なんて非生産的な人間なんだと嫌っていた。

 大人たちは、なんとかわたしを矯正しようと試みた。そのたびわたしはうそをついた。【もううそなんてつきません】。もちろんうそ。ほとぼりが冷めればわたしはまた平気でうそをついた。大人たちはわたしを見限った。誰も相手をしなくなった。気づけばいつしか、わたしのうそを聞いてくれるのは秋人あきひとだけになっていた。

 でも、そんな秋人もわたしのうそを聞いてくれなくなった。

 そしてわたしはひとりぼっちになった。きょうもひさしぶりにそとに出て、一週間分の買い物をしてまわったけれど、わたしに話しかけてくる知り合いはひとりもいなかった。通りで秋人とすれ違ったけど、秋人は、目も合わせてはくれなかった。


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 町はずれの天文台にわたしはひとり暮らしている。

 使われなくなってひさしいその建物を、わたしは勝手に使っている。許可をもらったわけではなかった。でも誰も文句をいわなかった。すでに用をなさなくなったその施設を、気に留めるものなどひとりもいなかったから。

 それほど広いわけでもないし、機材が整っているわけでもない。でも、女の子ひとり生活するには十分だった。ときどき塔にのぼって星を観測する真似ごとをしてみるけれど、もちろん実際に星がながめられるわけじゃない。ただ降りつづく雪を見つめて、ぼんやりと考えごとをしてすごすだけだった。

 そんな無用の天文台を訪ねるものなどいるはずもなかった。わたしはいつもひとりだった。だからその日、陽が沈んでだいぶ経った時刻に唐突にドアをノックする音が部屋に響いて、わたしは心臓がとまるかと思うくらい、びっくりした。


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 ドアのむこうに立っていたのは、おなじ年ごろの女の子だった。

 夜分遅くに失礼いたします、とその女の子は寒さに震えながらも礼儀ただしくいった。

 彼女はヨウコと名のった。あちこちを旅してまわっている途中偶然この町に立ちより、泊まるところを探していたのだが宿もなくどこも門前払いをされてしまった。町はずれの天文台なら寝床くらい貸してくれるかもしれない、と誰かにいわれ、訪ねてきたらしい。ベッドもなくたっていいんです。ヨウコはかじかむ指をくんで祈るようにいった。屋根のしたにいれてくれるだけでいいんです。邪魔はしません。朝になったら、すぐに出ていきます。肩を小刻みに震わせながら、すがるような声で尋ねる。だめでしょうか?

 まあ、とくにお構いもできないけど。わたしはそう前置きをしてからドアをおおきく開けた。泊まるだけなら、いいよ、どうぞ。ヨウコは顔を輝かせて、ありがとうございます、とぺこりとお辞儀をした。からだにかかった雪を丁寧にはらい落としてから、遠慮がちに敷居をまたいでなかにはいった。

 どこから来たの、とわたしは尋ねた。ヨウコのこたえた町の名は、わたしの知らないものだった。

 夕食のシチューは数日分を作り置きしてあったので、温めてふたりでいっしょに食べた。ヨウコは窓のむこうに舞う雪の粒をながめながら、ぜんぜんやみませんね、と感心するようにつぶやいた。お昼ごろにこの町に来たんですけど、そのときからずっと降りつづけていますね。あしたにはやんでいるかな?

 やまないよ、とわたしは短くこたえた。

 わかるんですか? とヨウコはいった。

 この雪はやまないんだよ。スプーンですくったにんじんのかけらを見つめながら、わたしはある事実をヨウコに告げた。【十年まえに降りだしたこの雪は、きょうにいたるまで、いちどもやんだことはないんだ】。


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 十年まえの早秋、この町にあるいまわしい事件が起こった。

 酒に酔った木こりの男が自分の妻と飼いねこを鉈で惨殺し、そしてみずからも自死した。

 その夜に降りだした季節はずれの雪はそれ以来やむことなく、春が来ても、夏の季節になっても、いっこうに衰える様子を見せなかった。大地に降りつもった雪は溶ける間もあたえられず、踏みしめられて固くなりさらにまた雪をつもらせた。

 この町では、だから毎年三メートルずつ標高があがる。呆けたように話を聞くヨウコに指で三を示しながらわたしはいう。建物はどんどん雪に埋もれていくから、みんな上方向に増築を重ねていくの。もちろん放棄された家もたくさんある。こんな町には住めないと、出ていってしまったひとたちもたくさんいる。というか、そういうひとのほうが、ずっと多い。

 美冬みふゆはどうしてこの町に残っているんですか? ヨウコは不思議そうに尋ねた。

 【星を見るため】とわたしはいう。天文台にとって、毎年標高があがりつづけるということは、つまり星との距離が毎年縮まりつづけるということ。それはとても有利なことでしょ?


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 もちろん理由はそれだけじゃない。

 秋人のことを、美冬は見すてることができなかった。秋人に対する罪悪感が、美冬をこの町に縛りつけている。

 木こりは秋人の父親だった。

 おれの父さん、酔っぱらうと怖いんだ、と秋人は美冬にいった。

 うそつきの美冬と唯一遊んでくれた友だちが秋人だった。秋人は美冬のつくうそを信じてくれた。楽しんでくれた。それがうそだとわかっても、ほかのひとたちのように、非難することはいっさいなかった。そんな秋人は、誰にもいえない秘密を、美冬にだけ打ち明けてくれた。

 いつもはやさしいんだ。秋人は複雑な表情をうかべていた。でも、酒を飲むとかわっちゃうんだ。乱暴になって、怒鳴りちらしたりするんだ。母さんを殴ることもある。仕事道具を振り回して、わけのわからないことを吠えることもある。怖いんだ。いつかなにか大変なことになるんじゃないかって、おれ、すごく怖いんだよ。

 不安に取り憑かれ、いつもとまったくちがう顔色の秋人を見て、美冬自身もショックを受ける。ちいさな氷のかけらがのどにつっかえたような気分になる。その不快感を取りなすため、いつものように、美冬はなにひとつ根拠のないでまかせを口にする。

 【だいじょうぶ。秋人のお父さんは、ほんとうはいい人なんだよ】


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