第16話 映画のような数奇なカーチェイス
ものの数分もしないうちに少女への暗示による記憶消去は完了した。結果は彼女が起きてみない事には分からないのだが、まさか今起こす訳にもいくまい。
見立てでは八割方の確率で上手くいくと思うのだが、もし失敗だったら此方としてはもう開き直るしかなかった。その場合の精神ケアは彼女の親類や友人に任せるとしよう。
「ま、十分だと思うぜ」とフォローしてくれる菊谷さん。ありがとう、やっぱあんたは良い人だ。さっきの呟きも、もう許す。
という感じで、両者間でとりあえず落ち着いた雰囲気が出ているのだが、忘れてはならない。現状として修羅場が続いている事に変わり無いのである。
追従しているヘリは相変わらずブンブンと蝿のごとく車に纏わり付いており、とうとう機外拡声装置(スピーカー)を使って此方に投降を呼びかけ出した。
『そこの車、止まりなさーい』
ではない。
『おいゴラァア!! いい加減止まらんかいボケカスがあああああああ!!!』
である。
口調はもうその辺のヤクザより(運転席をチラリ)ずっとヤクザらしかった。というか、うん。五月蝿え、近所迷惑。
これで女の子が起きてしまったら折角掛けた暗示もパァである。せめてもう少しボリュームを抑えて欲しいが、生憎とそれを此方から伝える手段がなかった。
ふと物は試しと思って、スマホのライトをONにする。そして窓からヘリコプターに向かってライトを照らしたり外したりを繰り返しながら、モールス信号を送ってみた。
ム・ス・メ・ハ・カ・エ・ス・ス・コ・シ・コ・エ・ヲ・オ・サ・エ・ロ (娘は返す、少し声を抑えろ)
『……あ? 何してんだ……? テメー舐めてんのか、コラ!!』
畜生! ダメだ、通じねえ!!
ガクリと肩を落とす僕に「そりゃちょっと無理があるだろ」と菊谷さんは笑いながら言った。
確かに、全員が全員にモールス信号なんて伝わる訳ないとは分かっていたけども。……いやでもさぁ、伝わっても良い流れだと思うでしょ、ここは。
やはり映画の様にそう都合よい展開にはならないらしい。
それにしても、この声、そしてこの気配。
例の「バレリーナ」だ。貸し倉庫脱出の時にアラベスクの姿勢で固まっていた化け物のうちの一人。
どうやら今度は逃してくれる気は無いらしい。ガラの悪さは元々なのかもしれないが、此方に対する暴言はエスカレートする一方だった。もうこれはどうすることも出来ないし、無視した方がいいだろう。
それよりも気になるのはもう一人の方だ。
化け物級のデカい気配だからこそ分かるのだが、今ヘリに乗っている化け物はバレリーナの奴が一人きり。パイロットもいるけど、こっちは多分普通の人間くさい。貸し倉庫で襲ってきた時にはもう一人の化け物がいた筈だ。その気配が今は何処にも感じないのが不気味だった。
「もしそいつがヘリと連携して、地上から追い掛けて来てるとしたら厄介です。トンネルに入る前に追い付かれると、山の中に逃げる計画もおじゃんになりかねません」
「そのトンネルまであとどれくらいだ?」
「あと5〜6キロです」
「後ろから車は一台も来てねえ。残りの距離がその程度なら、今さら追い付きはしねえさ」
「迂回して先回りされてる可能性は?」
「マップ見てたろ、ここまで俺らは最短ルートを通って来たんだ。間に合うわけねえだろ」
菊谷さんの弁は的を射ていた。反論の余地は無い筈なのだが、何かを見落としている気がする。
その「何か」の答えを教えてくれたのは、上空でずっと喚いていたバレリーナだった。
『よーし、分かった! 止まる気が無えならもう強制でやらせて貰う。"人外の力"を思い知れや!』
化け物、化け物とずっと呼称していたが、それはあくまで僕が「気配」から感じた奴らに対する比喩表現である。具体的に奴らがどういった化け物なのかを想像することは出来なかった。
生存本能が「よく分からんが、アレとまともに殺り合えば死ぬ」という曖昧な表現しかしてくれなかったのだ。
まさか本当に人外の力を使ってくるとは夢にも思っていなかった。
進行方向から見て左手側。そこに広がる針葉樹林の闇の中から、急速に接近してくるデカい気配。危惧していたもう一人の片割れである。まさかの道路外側からの登場に面食らう間もなく、いきなり奴は攻撃を仕掛けてきた。
メキメキメキメキ……
前方の道路脇に生えていた針葉樹の一本が、道を塞ぐように倒れてきたのである。
「ハンドル切って! 対向車線へ!!」
とっさに出た言葉に菊谷さんは反応してくれた。ぶつかる寸前のタイミングで、対向車線へはみ出すような形を取りながら倒れる樹木を回避する。甲高いスキール音を響かせながら、何とか元いた車線に戻ってくれた。
対向車がいなくて助かった。いたら正面衝突は免れなかっただろう。
「何だったんだ!?」
「さっき言ってた追手の片割れです! 林の中!!」
「嘘だろ!? 先回りされてたってのか!」
「違う! 急に接近されました! 林を突っ切ってショートカットしてきたんです!!」
「あり得ねえだろ!? 一体どうやって!?」
どうやっても何も、僕自身、自分の見た光景を信じる事が出来なかった。林の中をこちらと並走する奴は、自分の足で駆けているのだ。
確かにさっき、樹木を躱すことによって車のスピードは一瞬だけ緩んだ。しかし今は再び80km/h以上の速度を取り戻している。なのに奴は足場の悪い林の中で平然とそのスピードに付いてきていた。
ヌルリ、と道路に飛び出して来た奴はそのままスピードを落とす事なく、車の後ろにピタリと貼り付いてくる。さながら未来から来たサイボーグが主人公の車を追い掛ける、某SF映画のワンシーンだった。
「……分かったぞ! 奴はスカイ◯ットからの刺客だ!」
「落ち着いてください、この車にジョン・◯ナーは乗ってません!」
流石の菊谷さんも半狂乱である。でもこれは無理もない。僕もまさかここまで常識外れの連中だとは思ってなかったのだ。割と怖いもの知らずな僕でも、アレはちょっと怖い。
先程モールス信号を送った時、映画の様な都合の良い展開を望んだがこれじゃ真逆だ。悪い方向で映画っぽくなっている。
もうトンネルとは目と鼻の先なのに。
映画といえば。
こんな時だが、ここでふと脳内にとあるイメージが浮かんだ。よくある映画のありがちなワンシーンだ。
敵に追われる主人公……追手との熾烈なカーチェイス……バイクを巧みに操る敵……ウィリーで持ち上げた前輪を主人公の車に激しくぶつける!……悲鳴を上げる同乗のヒロイン!……そこですかさずブレーキを踏む主人公!……回避出来ずにぶつかる敵!バイクは大破!!……倒れた敵を一瞥し、クールに走り去る主人公……ヒロインは主人公に惚れ直す。
よしこれだ。
「ブレーキ」
「……あん!?」
「今、急ブレーキを踏んだら後ろのアレに一発かませます。すぐリスタートして一気にトンネルまで逃げ切りましょう」
「それだ!!!!」
キィィィッ!
菊谷さんは一切迷う事なくブレーキペダルを踏み込んだ。
彼の事だから「相手が死ぬのでは」と甘い事を言うかと思ったが、そんな躊躇は全く見せなかった。流石にアレを気遣う余裕は無かったのだろう。というより、よっぽど怖かったのか。
兎にも角にも菊谷さんの思い切った英断に感謝である。
猛追してきていた「ターミ◯ーター」は此方の目論見通りに、急ブレーキに反応出来ずリアゲートに激突した。それを一瞥してすかさずリスタートをきる菊谷さん。
良いぞお菊さん、惚れ直した。あんたが主人公だ。
窓から後方を確認すると、ターミ◯ーターは倒れ込んだまま動く様子を見せない。これで倒せたとは思ってないが、チャンスである事には変わり無かった。今のうちにトンネルに滑り込めば活路が開ける。
そう思った事が一瞬の油断に繋がってしまったのだろう。もう一人の化け物の存在を完全に忘れていた。
誰であろう、バレリーナに他ならない。
「よう」
いきなり車の前に現れて、こちらに挨拶してきた。そしてそのままフロントバンパーに激突する。
その瞬間は見ていなかったが、恐らくヘリから飛び降りたのだろう。現れた瞬間、そして激突している今も奴は悪戯を仕掛けた子供の様にニヤついていた。
「──っアクセル緩めないで! このまま吹っ飛ばせ!!」
「うおおおおおおっ!?」
叫ぶ菊谷さん。恐怖も
バレリーナはフロント部にがっしりとしがみ付いている。すぐに振り落とさないと絶対にまずい。
急いで懐から例の拳銃を取り出した。こんな出鱈目な奴に通用するのか分からないが、他に手が無いのも事実だ。窓から身を乗り出して狙いを定めようとしたが、そこでまた有り得ない事が起こる。
ザリザリザリザリ……と何かが擦れるような音がしたと思ったら、急に車のスピードが落ち始めたのだ。全体がガタガタと激しく揺れ、これでは狙いを定めるどころでは無い。
何事かと奴を見れば、なんと足を地面に擦り付けて踏ん張っている。
…………って、いやおい。それで止める気か、出鱈目すぎるわ。
見る見るするうちにスピードは下がって行き、とうとうトンネルの手前で車は本当に止まってしまった。
タイヤはずっと動いている。菊谷さんはアクセルを踏み続けていたが、ギュルギュルと地面を空回りしているだけで、全く前に進んでいないのだ。摩擦によって煙が生じ、車の周りに虚しく立ち込めている。
「クソが! ならバックだ!!」
菊谷さんはそう叫んでシフトレバーを操作する。とっさの機転としては正しいだろう。だが、それも直ぐに無意味だと知ることになった。
ガタリと一瞬だけ動いたが、またも直ぐに動かなくなったのだ。前進していた時と同様、タイヤだけが虚しく空回りをし続けている。
振り返ると、片割れのターミ◯ーターがいつの間にか復活していて、この場に追い付いて来ていた。バレリーナ同様、リアゲートにガシリとしがみ付いて行かせまいと押さえ込んでいる。
化け物二人に完全に挟まれて、車は全く動けない状況になっていた。
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