第6話 その時、猫は竜に疑念を抱いた

 ――一限目。

 チャイムの音が鳴り響くと同時、猫丸にとって人生初めての授業が開始された。

 最初の授業は英語。担当の教師が全員に教科書を開くよう指示すると、あちこちからページを捲る音が聞こえてくる。


 「はい、では前回に引き続き、仮定法の勉強を行っていきます。まずおさらいですが……――」


 教卓に位置し、教科書に記述されている内容を読みながら、教師が黒板にその要点を書いていく中。


 ――クソッ、まさか最初から躓く事になるだなんて……。それもこれも、全部この女のせいだ……!


 猫丸は、授業に全く集中出来ていなかった。

 朝の出来事に困惑し、眉間に力いっぱい皺を寄せてしまう。

 一応指示されたページは開いているものの、教科書の隣にあるノートには一切手が加えられておらず、見事なまでに真っ白な状態。

 右手に握られているペンも、文字を書く為の通常品ではなく、家の者に一度没収されたシークレットナイフであった。


 ――一見、平然と授業を受けている様だが……。ついさっき、俺の正体を暴いた挙げ句、自分の正体まで明かしてきた奴だ。心の奥底で、何かしらまた企んでいるに違いない……。


 自分の隣の席に座る少女を何度も一瞥しながら、頭の中で幾度と思考を繰り返す猫丸。

 その表情はどんどんと強張っていき、知らず知らず、近寄り難い雰囲気を醸し出してしまっていた。


 「おい、あの転入生めっちゃ怖い顔してんぞ……」

 「ヤベーよアレ……。今にも人殺しそうな雰囲気じゃん……」

 ――私か?私の授業がつまらないせいか?私の授業がいけなかったのか⁉


 教師を含め、教室に居るほぼ全員が、猫丸の体から溢れ出る威圧感に押され、冷や汗で背中をベッタリと濡らす。

 その様な事態に気付かぬまま、猫丸は自身をこんな状態に貶めた元凶、紅音の動きを監視し続けた。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 ホームルームの終了後、紅音を自分と同じ世界の人間と勘違いしてしまった猫丸は、自ら紅音の調査を行っていた。

 家の者にも増援を依頼する選択肢もあったが、自分が抜けた穴を埋める為、家は全員総出の大忙し状態。

 流石に無理を言って人数をこちらに割いてもらうのは、猫丸にとって非常に申し訳ない事だった。


 ――俺(の親父の我が儘)が引き起こしてしまった事態だしな……。今回の件に関しては、俺一人で乗り切るしかないか……。


 幸い、今の自分は手ぶらじゃない。

 多少心許無いが、獲物が二つ用意されているのは救いであった。

 これならもし戦闘に発展しても、充分に対応出来る。

 相手がどれ程の力量の持ち主なのかは知らないが、負けるつもりは一切無い。

 己の強さを信じ、猫丸はいつ紅音が動き出してもいいように構えながら、その様子を見張っている。


 そして遂に、紅音に動きが――!


 「『If it had not been for the storm, we would have had a better harvest.』――ではこの英文を……竜姫さん、和訳してください」

 「ハイ!」


 黒板に書かれた英文を読んだ後、それを和文に直すよう教師に指名された紅音。

 返事と共に立ち上がるその姿を、猫丸は当然見逃さなかった。


 ――何だ、ただの翻訳か……。まあ、これくらい問題ないか。


 張り詰めていた緊張感から解放され、猫丸は一度安堵する。そして、教師が黒板に書いた英文を見るや否や、瞬時に解答を頭に思い浮かべた。

 全世界が仕事場となる以上、殺し屋にとって、公用語として利用される事の多い英語の修得は必須。

 当然、難なく答えられるだろうと思っていた猫丸は、紅音の和訳に耳を傾け、



 「『もし貴様が我が怒りに触れた時、全ては紅蓮の炎に包まれるであろう‼そして、灰燼と化したその世界で、貴様は漆黒に染め上げられ、絶望の涙を流すのだ‼』」



 そのあまりの間違えっぷりに、自分が思い浮かべていた解答と似ても似つかぬ回答に、思わず唖然としてしまった。

 勿論、その反応を浮かべたのは猫丸だけではない。

 紅音を除く全てのクラスメイト達と、その紅音に和訳を要求した教師までもが、口を開いたまま何も言えなかった。


 ――何だ、今の馬鹿げた回答は?


 凍り付く空気の中で、猫丸は頭上に疑問符を浮かべてしまう。

 そんな中、教師が「違います」と返すなり、切り替える様に一つ咳払いした後。


 「えーっと、じゃあその隣の……。黒木さん、代わりにこの和訳をお願いします」

 「は、はあ……」


 紅音の尻拭いを要求され、猫丸は仕方ないとばかりに立ち上がる。

 その頃、教室に居る生徒達の頭の中で、一つの反論が浮かび上がった。


 ――何でそいつに頼むんだよ!


 ホームルーム時の遣り取りで、猫丸を紅音と同種の人間と思い込んでしまったクラスメイト達。

 先程の二の舞になる事を悟り、全員で教師を心の中で罵倒し始めた。

 一方、指名した当人である教師も、猫丸の立ち上がった姿と顔を見て、またやってしまったと後悔する。


 ――ああああ……、何をやってるんだ私は!また酷い空気になってしまうぞ……。


 他者だけでなく、自ら自分を責め続けてしまう英語教師。

 しかし……、


 「えー、『もし嵐が来なかったなら、我々はより豊作に恵まれていただろう』」


 図らずしも、その心配は杞憂に終わった。


 「あ、ありがとうございます……。着席してください」

 ――ふ、普通だ……。いや、それでいいんだけどね?むしろ、そうであって欲しいんだけどね?


 意外な結果に終わり、教師や生徒達の口から安堵の吐息が放たれる。

 猫丸はそのクラスの空気に、なんとなく違和感を覚えていると、隣の調査対象から話しを掛けられた。


 「フッ、中々やるな、ブラックキャット」

 「これくらい当然だ。それより何だ、さっきのふざけた回答は。和訳は滅茶苦茶な上、後半明らかに付け加えられた様な内容も入っていたぞ」

 「フッ、アレをただの回答と勘違いするとは……。貴様もまだまだだな」

 「何だと……?」


 挑発されたと思い、猫丸は顔をどんどん顰める。

 その掛け合いから生まれた雰囲気が、教室の空気をまた一度凍り付かせた。


 ――喧嘩しないでー……。


 ――二限目。

 ジャージに着替えた猫丸は、クラスの仲間達と共に、体育館へとやって来た。

 広々とした空間を分ける様に、巨大なネットが間を仕切っている。

 どうやら、今度の授業は男女別々に執り行われるらしい。


 「おっしゃ一点!もう一本獲るぞー!」


 同じ服装をしたクラスの男子達が、五、六人のチームに別れ、互いにボールを取り合っている。

 足を器用に使い、ボールを自分の元に運ぶと、それを勢い良く敵のゴール枠に目掛けて蹴り飛ばした。


 ――成程、これが室内サッカー。フットサルというヤツか。


 壁に背を預け、端の方で観戦しながら、猫丸は競技の仕組みを学習する。

 ある程度理解すると、今度はネットの向こうで行われている競技に目を遣った。


 「はーい、パスパス!」

 「スマッシュ来るよー!構えて!」

 

 掛け声に合わせ、一チーム六人の少女達が、同じく一個のボールを扱い、点数争いをしている。

 こちらと大きく違うのは、自陣と敵陣との間に仕切りがある事。そして、足ではなく、手を主に使用している事くらいか。

 宙に打ち上がったボールが叩かれ、向かいのチームに物凄い速さで送られる。

 すると、一人の少女が両腕を巧みに使ってそのボールの勢いを上手く殺し、高く打ち上げられたボールを、今度は別の少女が同じ様に敵陣に送り付けた。


 ――アレがバレーボール……。成程、反射神経と体の使い方を鍛えるには、中々いいスポーツだな。


 過激的応酬を目にし、表社会にも面白いものがあるなと感心する猫丸。

 そんな彼の視線の先で、ようやく目的の彼女が動き出した。


 「紅音!行きましたよ!」

 「うむ!任せろ!」


 掛け声に合わせ、紅音は大きく手を伸ばす。

 ちょうど彼女の真上には、味方のレシーブによって打ち上げられた、バレーボールがあった。


 「フハハハハハハハハハハ!さあ、天から舞い降りし黄珠よ!その身を預け、我が手元に帰るがいい!」

 

 声を張り上げながら、宙にあるボールに向けて手を掲げ続ける紅音。

 彼女の望み通り、ボールは重力に逆らう事なく、そのまま紅音の元へと落ちていって……。


 「――ギャウン‼」


 そのまま、彼女の両手を素通りし、額に勢い良く直撃した。

 赤くなった額を手で押さえ、痛みに悶絶する紅音と、その様子をただただ無言で見据えるクラスメイト達。


 「ううっ……、いっ、痛い。この私に傷を付けるとは、流石は神の寵愛を受けし黄珠よ……」

 「オーバーハンドパスは、ただ手を上に向ければいいってものじゃないですよ、紅音。ちゃんと両手の親指と人差し指で三角形を作って、しっかりボールを受け止めないと」

 「むーん……」


 眼鏡を掛けた少女に起こしてもらいながら、紅音は難しそうに首を捻る。

 その様子を静かに眺めていた猫丸は、


 ――あの女……、竜姫と言ったか。何だあの動き。見るからに平均以下……。明らかに一般の者達のそれを下回っている……。


 紅音に新たな疑念を、不審感を抱いていた。

 自慢ではないが、猫丸は自分を、裏社会の中ではかなり名の通っている部類に入ってると思っていた。

 事実、猫丸は殺し屋業界の中で最強と謳われる存在であり、その手で刈り取った命の数は、集計するのが億劫になる程だ。

 そんな自分の前で、堂々と名を告げてくる様なイカレ者なのだから、紅音あの女は腕に自信が有るのでは。そう……。


 「転入生!出番だぞー、早く来い」


 呼び声が聞こえ、その方を見てみると。既に味方と、相手チームが向かい合ったまま並んでいる。

 呼んできたのは、彼等の間に立つ審判役の体育教師の男だ。

 呼び声に応じ、猫丸は彼等の元に走っていく。

 試合前の一礼を終え、それぞれが配置に付き始めると、すぐに開始の笛の音が鳴った。

 ボールを巡り、一斉に走り出す敵味方達。

 それに対し、猫丸は棒の様に立ち尽くしていると。


 「転入生!頼む!」


 敵に囲まれていた味方から、持っていたボールを渡された。

 受け取ったボールを足で止め、敵のゴールと、その手前で構えるクラスメイトを、猫丸は眼帯で塞がれていない方の右眼で捉える。


 ――確か、あそこに目掛けて、この球を蹴るんだったか……。


 事前に見て覚えた事を思い出し、猫丸は右足を振り上げる。

 弧状の軌跡をゆっくり描くと、今度はその軌跡をなぞる様に振り下ろし、


 「――フンッ!」


 思いっ切りボールを蹴り飛ばした。


 傍から見れば、それは一体何が起こったのか、解らなかったであろう。

 つい先程まで、猫丸の足元にあった筈の球体は、まるで瞬間移動でもしたかの様に姿を消し、気付いた時には、


 「「「「はわっ……、はわわわわわわわわわわ……」」」」


 瓦礫と化したゴールに紛れ、そこに転がっていた。

 風圧によって吹き飛ばされたゴールキーパーが、痙攣を起こしながら倒れている。

 敵味方問わず、一連の現象を目の当たりにした者達が、まるで天災でも目にしたかの様な反応を浮かべ、その場に固まった。


 「済まない。何せ初めてだったもので、加減が上手く効かなかった」

 

 流石にやらかしてしまった事は自覚しているのか、猫丸は倒れているゴールキーパーの元に駆け寄るなり、深々と頭を下げる。

 しかし、反省の意は届かず、キーパーは後退りする形で、猫丸から距離を取ってしまう。

 やはり、自分が高校ここに来る事は失敗だったかもしれない。

 そう思いながら、猫丸は独りで俯いていると、


 「フハハハハハ!やるなブラックキャットよ!それでこそ、私と同じ闇を生きる人間に相応しい男だ‼」


 ネットの遠く向こうから、生意気な笑い声と共に、再び余計な事を口から放つ女の声が聞こえてきた。

 またもふざけた女に話し掛けられ、猫丸は不機嫌を顕にした面持ちで、その方を振り返ると……、


 「紅音!危ない!」

 「ん?――ギャウン!」

 

 敵陣の方から放たれたボールが、その女の額にもう一度直撃した。


 ――危機感知能力もゼロ……。あの女もしかすると、そこまで大した事ないのでは?

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