【カルイシケリカ】短編集

カルイシケリカ

醜悪

すべては《おぞましい悪夢》から始まった。二十一世紀初頭、謎の感染症のパンデミックが勃発し、その奇病に感染した人々は醜い化け物に変貌していった。生気を失った灰色の肌、口は横に避け牙が剥き出し、その瞳は血に染まったような赤だった。変わり果てた自分たちを醜人と呼ぶ者もいた。奇病の治療方法は見つからないまま世界中から人間は消え去り、ひとり残らず醜人になっていった。


 父は三人兄妹の末っ子だった。

祖父母や叔父、叔母たちは自分たちの容姿を忌み嫌っていた。しかし、生後間もなく奇病に感染した父だけは、自分の姿が醜いと感じることはなかった。世界中の人々が例外なく自分と同じ姿をしていたし、鏡に映る自分の姿は周りが何と言おうとも自分自身の真実の姿だったから。


幼い頃、父は祖母から一枚の写真を貰った。それは満面の笑みを浮かべてカメラに視線を向けている若い美しい女性の写真だった。それは奇病に感染する前の祖母の写真だった。

祖母は有名な映画女優でその美貌と演技力が高く評価されて、数多くの作品に出演していた。しかし、奇病の感染とともに祖母は女優業から引退し、二度と公の前に自分の姿を見せることをしなかった。祖母は父によくその写真を見せながら当時のことを懐かしむように話してくれていた。

しかし、父にはどうしても自分と写真に写る祖母の姿が根本的に違っているようには思えなかった。

「きっとそれは、あなたがとても優しくて美しい心を持っているからよ。なぜなら現実はあなたの心の有り様でどのようにも映るものだから」、そう祖母は父に教えてくれた。

祖母はその後、自分の醜さに耐えられなくなり自殺した。祖母のことを世界で一番美しい女性だと思っていた父には、なぜ祖母がそのような終わりを選んだのかまるで理解できなかった。父の目には、祖母はあの時見せてくれた写真の姿とまるで変りなく写っていたから。


祖父の家系は代々有名な医学者や科学者を輩出してきた。祖父は奇病の原因究明のために全力を尽くしたが、一向にその謎が解明されることなく、時間だけがただ無駄に過ぎていった。厳格だった祖父は奇病によってもたらされた全てを憎んでいた。祖母を醜い姿のまま死なせてしまったことを悔やみ、祖父はいつしか仮面を被るようになり、自分の素顔を他人に晒すことを一切止めた。


しかしある日突然、何の前兆もなく事態は急展開を見せた。

ブダペストで開かれた世界科学会議の最中、壇上に一組の男女が特別ゲストとして登壇した。その二人は登壇するや否や自分たちが被っていた仮面を外し、彼らの素顔を見た会場は激しく動揺した。

二人は綺麗な人間の姿をしていた。

壇上の男は満足げに会場を眺め、スピーチを始めた。彼らはトランスヒューマニズムと呼ばれる分野の研究員たちだった。

「私たちは最新の科学技術を駆使して、人間の身体と認知能力の概念を根本的に覆し、過去前例のない域まで劇的に向上させることを可能にする技術の実現に成功しました」

その男は人工脳に電子的に複製された自身の精神を転生させることに成功したと説明した。

しかし、彼らが開発した精神転生技術はまだ改善の余地があり、本格的に普及させるにはまだ時間がかかると言った。事実、彼らのボディーの大半は機械構造であり、表面上にただ人工皮膚を貼り付けているにすぎなかった。しかし、近い内にその技術を用い世界中すべての人々の精神を自分たちの醜悪な肉体から解放し、本来あるべき姿に戻すことを誓い、そのためには世界中の協力が必要だと訴えた。


祖父は取り憑かれたようにトランスヒューマニズムの研究に没頭し、彼の人生の全てを捧げ、この世を去っていった。

 祖父の葬儀には数多くの出席者が参列した。葬儀には父が久しく会っていなかった伯父も来ていた。その夜、伯父は彼が携わっていた国家プロジェクトについて父に話してくれた。

「仮想現実内に人間の意識を完全に転生させる技術は、人々を醜い姿から解放するための第一歩なんだ」

 当時、精神転生技術はまだ開発段階で精神転生を行い人の姿に戻れた者は世界中どこを見てもまだ一握りの特権階級のみだった。

 伯父は祖父の意思を引き継ぎ、脳内のニューロン全てを同等の入出力機能を持つマイクロチップに置換する電子脳の開発を進めていた。特殊なコンピュータに被験者の電子脳を接続し、コンピュータのネットワーク上に電子的に再構築された仮想現実を作り、そこに被験者の意識を転生することによってあたかも自分がその世界に存在するかのような体験が可能になる。仮想現実では人はどのような姿にもなることができると伯父は言った。

 

 「僕たちにとって、いまのこの姿でいつづけることは本当に悪なのだろうか?」

 ある日、父は食事を供にしていた伯父に尋ねた。

「ありのままの姿を受け入れようとする心こそが大切なのではないのだろうか?」

しかし、伯父はその言葉に激昂した。

「この姿になったのは必然などでは決してない。この忌むべき姿を望んだものは誰一人としていないだろう。醜いということは最大の悪なんだ。鏡に映る我々のこの醜い姿は、全ての人々から生きる希望を剥奪し、これから生まれる子供たちから未来の可能性を奪い去った。再び私たち自身を真の意味で人間と呼ぶためには、いまいちど然るべき人間の姿を、我々のこの手で取り戻すしかないんだ」

ほどなくして、伯父が研究していた技術は完成し、本格的に実用化されることになった。

しかし、あの日の口論以来、父と伯父が出会うことは二度となかった。

父は悔やんだ、誰よりも伯父のことを尊敬し愛していた父に、なぜあの時、伯父の信念に反するようなことを言ってしまったのかを。世界中の誰よりも正義感に満ち溢れていた伯父は、ずっと一人で人の心の奥底に潜む心の闇と戦っていた、そのことに気づけなかった自分を、父は生涯責め続けていた。

  

父にはもう一人姉がいた。

伯母も祖父の意思を引き継ぎ、国内有数の研究機関で精神転生技術の開発をつづけていた。

長年の研究の末、伯母は日本人として初めて電子脳への精神移植を成功させた。伯母はその功績を認められ海外に移住し、世界的な人工知能の権威の下で更なる研究をつづけていた。

数年が経過し、一時帰国を果たすことになった伯母は、父に久しぶりに会いたいと連絡してきた。そして父は再会を果たし、変貌していた伯母の姿に驚愕した。

伯母は自身の肉体を放棄し、精神を義体に転生していた。それは世界最高峰のデザイナーによってデザインされた美しい義体だった。伯母の体は最新鋭の生物学の技術を駆使し、その大部分を彼女自身のクローン臓器で構築されていた。また遺伝子操作により身体機能と認知能力は飛躍的に向上されていて、その体は死すらも超越することができた。

「もうすぐ誰もが精神転生の恩恵を享受できる日が訪れようとしている」

 伯母は父に満面の笑みを浮かべて言った。 


翌日、伯母は有識者のために開催されるパーティーに父を誘った。父は躊躇したが、伯母の勧めもあって参加することを決めた。

会場に案内された父を待っていたのは、彼がそれまで見たこともないような豪華な晩餐だった。招かれた人々は医学界や科学界のみならず、政治家や芸能界などありとあらゆる業界から集まっていた。しかし、その中で、伯母の姿は一際存在感を放っていた。参加者たちは瞬時に彼女の姿に魅了され、彼女の一挙手一投足に翻弄されていた。


パーティーも半ばに差しかかった頃、父は一人バルコニーで酔いを覚ましていた。

そこにグラスを持った伯母が現れた。父は何気なく彼女に聞いた。

「この姿でいることは本当にいけないことなのだろうか?」

伯母は何も答えなかったので、父は質問を続けた。

「どのような理由であれ、生まれ持ったこの姿を祝福し尊ぶべきではないのだろうか?」

父の言葉を静かに反芻する伯母は、やがて考えた末に、こう答えた。

「私には普遍的な意味で、この醜い姿であることが善であるか悪であるかは分からない。でもこの姿を誰一人として美しいと思っていないことを私は知っているわ。私たち人間が本来の姿を思い出すことができる限り、この姿を受け入れることができる日は決して訪れない、それだけは確かだと思う」

その後、伯母は再び研究の継続のために日本を発ち、日本に戻ってくることは二度となかった。


それから月日が経過した。

父は私の母と出会い結婚し、しばらくして私が生まれた。

その頃には祖父や叔父たちが思い描いていた未来は現実のものとなっていた。精神転生技術は飛躍的な進歩を遂げ、大衆にも広く普及していった。

富裕層はまるで高級ブランドの服を纏うかのように、洗練されたオートクチュールの義体を大量に購入し、その日の気分に合わせて義体を変えたり、流行に合わせてカスタマイズしていたりした。

中流階級は、大量生産された廉価版の義体を纏うか、肉体を手放し仮想現実内に精神を転生させた。

残された貧困層は、義体を手に入れることも、仮想現実に精神を転生することもできず、飢えに耐え忍ぶ日々を送っていた。


私たち家族は義体を纏うことも仮想現実に精神を転生することもしなかった。代わりに父は非営利団体を設立し、貧困層を支援する活動を続けていた。生活は苦しかったが、それでも父はありったけの愛情を母と私に注いでくれた。

しかし、精神転生を擁護する人々は如何なる理由であれ、父のように醜人の姿であり続ける人々がこの世に存在している事実を忌み嫌った。醜人蔑視の意識に助長され、彼らはヘイト運動を起こすようになり、その運動はやがて暴力を伴う排除運動へと一転した。やがて彼らの運動は政府も巻き込み、醜人たちを強制収容所へと送り大量虐殺を行う、醜人絶滅政策へと変貌していった。言うまでもなく私たち家族もその暴力の対象となった。


ある日私たちが住んでいたアパート周辺でも、反醜人主義を掲げる人々による過激なデモ活動が行われ、住居者たちとの激しい衝突が起き、その結果、辺り一面が火の海となった。

銃声と怒号が飛び交い、ヘリコプターの旋回音と救急車のサイレンが鳴り響いていた。私たちのアパートにも火が移り、黒煙が立ち込め、荒れ狂う業火が全てを飲み込んでいた。

その時外出していた父は奇跡的に私たちのアパートにたどり着き、リビングで意識を失い倒れている私を見つけた。私を守ろうと自分の身を挺した母は、私の横ですでに亡くなっていた。

 炎の中、父の心の奥底で生まれた感情は果てしない自責の念だった。最愛の妻を救えなかった自分の無力さを責めた父の姿はかつての祖父と重なった。しかし父は決して最愛の妻を死に追いやった現実を憎むことはしなかった。父はこの世界で生きるにはあまりにも優しすぎたのだ。


火災から救出された私は搬送された病院で奇跡的に一命をとりとめた。しかし重度の火傷を負った父は私の生存を確認して間もなくこの世を去った。


その後、容態が回復した私は、強制収容所へと送られることになった。収容所へ送られる前夜、優しくしてくれた一人の看護婦がそっと父の記憶の一部を私にくれた。

収容所には、私と同じように両親を失った醜人の子供たちが大勢いた。そこで収容された子供たちは、定期的にどこか別の場所に隔離され、二度と戻ってくることはなかった。


私たちがこの世界に存在していたという証拠を残すために、私は収容所の子供たちの写真を撮り始めた。

しかし、私は気づいてしまった、私たちの写真があなたたちの目に触れること日は決して訪れないことを。なぜならわたしたちは醜いから。

わたしたちの醜い姿は、あなたたちの心の奥底に潜む、その醜さを思い出させる。そしてあなたたちは自分の心の醜さが暴かれることを何よりも恐れている、だから醜い私たちが存在することを許さない、あなたたちの美しい世界を守るために。


私はいずれあなたたちの手によってこの世界から消される運命にある。

しかし、私はそんなあなたたちを決して憎むことはしない。なぜなら私は最後の最後に、残された父の記憶と繋がることができたから。そして父だけが見ていた世界の真実を知ることが出来たから。


父が残してくれた世界の真実、それは《おぞましい悪夢》や奇病など最初から存在していなかったということ。人が醜い化け物に変貌したという事実など存在していなかった。少なくともわたしの父の目には、醜いと恐れていたあなたたちの姿は本来あるべき人間の姿として映っていた。

あなたたちが醜いと忌み嫌っていたあなたたち自身の姿は自分たちの醜い心の現れだった。ただそれだけだった。

しかし、虚栄心と傲慢さに狂わされ真実を見失い、自分を偽りつづけた果てに魂すら手放したあなたたちは、どれほど望もうとも、もう二度と自分たちの真実の姿を見ることはできない。なぜなら、この世界で誰よりもあなたたちのことを愛し、唯一真実の世界を見ることが出来た私の父をあなたたちは殺してしまったから。

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【カルイシケリカ】短編集 カルイシケリカ @Kelica_Karuishi

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